何もとりえがないと悩んだ日々
大学生時代、自分には何もとりえがないと、深く悩んでいました。
人よりも卓越していなければ、自分を愛せないと思っていたんです。
でも現実の自分はあまりにも未熟で格好悪くて、とりわけ女の子にもてなくて、誰からも愛されていないことがもう致命的でした。
自分はすべてにおいて優れていなければならないのに、なぜこんな不条理に縛られているのかと本気で思っていました。
いま思うとどうしてこんな「100点満点か、さもなければ0点」の思考しかできなかったのか、とても不思議です。
でも当時の気持ちとしては、こんなぶざまな、みっともない自分ではとても納得できないという思いが強かったのです。
「一芸に秀でる」ことを目指したものの
そこで次に考えたのが「一芸に秀でる」という発想でした。
自分は劣った人間だけれども、何か一つだけでいいから誰にも負けないものができれば、それで自分の存在意義は保たれると考えたわけです。
ちなみに「勉強ができる」「偏差値エリート」というのは、人としては低い存在だと思っていましたので却下。
自分には、勉強以外に何のとりえがあるのかと自問し始めたのです。
でも考えれば考えるほど、自分には何のとりえもないことが改めてはっきりしただけでした。
まず、恋愛経験はゼロで、彼女いない歴が年齢よりも長いくらいでした。
それでも、友だちが多ければ、自分には人望があると思えて、まだ救われたかもしれません。
でも現実は、こんな屈折した私のところに、人が集まってくるわけがありませんでした。
いろんなことに挑戦したけれど
文学をやりたいと思って、文芸部で小説を書きました。
でも先輩たちの評価は、かなり散々なものでした。
先輩たちの目を意識して、気に入られそうなものを書くようにしてみたら、だんだん「上手くなった」とほめられるようにはなりました。
でも自分が本当に書きたかったものからはどんどん遠ざかっていくのがわかっていました。
読書量だけは誰にも負けたくないと思って、一日一冊のペースで文庫本を次々読破していった時期もありました。
ただ、速く読みすぎたのが災いして、どんな内容の本だったのか、いまとなっては全く覚えていません。
しかもそのころためこんだ蔵書のほとんどは、その後の引越しなどで処分してしまいました。
誰からも批判されないで、自分の世界を確立できると思ったのは、コンピュータ・ゲームの中の世界でした。
ドラクエみたいなゲームだと、ゲームの中でコツコツ努力すれば、経験値がたまってレベルが上がって、努力が報われる仕組みになっていますね。
いくらがんばっても小説の才能もなく、彼女もできず、空回りしていた当時の私にとって、努力が報われるコンピュータ・ゲームの世界は、ものすごく魅力的に映りました。
ただ、これも結局は自己満足なんですね。一人で引きこもってゲームだけしていれば、確かに誰からも批判されませんし傷つきませんが、そのかわり誰にも認めてもらえない。
無機質なコンピュータ・プログラムが、いくら上昇し続ける能力値と心地よい電子音で何度もほめてくれたって、これでは現実逃避じゃないかという思いばかりがつのり、どうしても満たされなかったのです。
学生時代の私はこんなふうに、満たされない自分の心と折り合いをつけるべく、先が見えないまま悪あがきを続けていたのでした。
まあこんな情けない人間でも、無事に社会人になって、いまでは少しはまともに現実を生きていますから、世の中まだまだ捨てたものではないとは思います。