私の好きな「この」1行
レンタルスペースお茶代10月の課題だったこちら。
締め切りには間に合いませんでしたが、折角なので書いていきます。
いつも好きな本とかフレーズは結局アルケミストになってしまうのだけど、えなりさんのnoteが太宰治の「斜陽」で、美しく破滅的な文章で思い出したので、こちらの本から。
数年前に最近古本屋を始めたお友達とイケメンボーイと京都で遊んだ時にたまたま立ち寄った魔窟のような古本屋で見つけた初版本。
私が持っているのは植田裕次訳ですが、澁澤龍彦訳も出ているそうなので、そちらも面白そうですね。
タイトルの通り恋愛にまつわる短編集なのだけど、マゾッホとは違い肉体的な痛め付けが全然無いので、サドって意外と普通だな?とナメてたら精神的な痛め付けが惨かった。
とあるように、どの短編も善い人間を悪い人間がたぶからし、陥れ、悪徳に身を染め取り返しが付かなくなり嘆き悲む美徳の美しく善良な精神を壊す喜びを描いている。
いや、本来は物語の中の悪徳だけがそこに『喜び』を感じている筈なのに、うっすらと悪徳の喜びに共感していまっている自分を見つけて悪徳の芽が自分の中に出ている事を発見したり、元からあったのではという疑心を煽り、読者までも悪徳に染めようとする非常におぞましい本だ。
美徳と悪徳のコントラストが強くはっきりと出て、ここまで惨たらしいと感じるのは、時代背景に拠るところも大きいと思う。
例えば、悪徳の様々な陰謀により離れ離れになる前の恋人達の会話はこう。
この2人、長いこと恋人関係で結婚も約束している仲なのに「ついに思い切って」口づけのリクエストしないといけないし、彼女も了承してすぐに(*˘ ³˘)となるのではなく、先ずは「両腕に身を沈める」のですよ。貞淑!!
恋人達ですら口づけは許可申請をして承認を受けてさらにこっそりと交わすくらい大切なものなのに、悪徳は夜中にベッドルームに忍び込んで無理矢理!なんてやっちゃうものだから、貞淑な当時の人にとってそれがどれだけ倫理を超越した非道な行為だったことか。
これを現代でやったら、突然ベッドルームに忍び込んで無理矢理!は同じく極悪非道な行為ではあるものの、そのコントラストはもう少し薄くなってしまいますよね。
この2人だけでなく、この本に出てくる美徳の人達は皆、情熱的かつ大切に関係を築いていて、とてもいいなと思います。私も「薔薇の口」とか言われてみたい。ローズカラーの口紅買えばいいですか?
なぜ悪徳は、美徳を壊すことに喜びを感じるのか?「恋の罪」の中にこんな一文があった。
あぁ、そうだ……。
悪徳が美徳を壊すのは、美徳が美徳であるが故であり、文字通り悪戯にそれを壊す喜びのためだけに美徳を壊してるのだ。だって面白いから。
美徳は純粋で清い聖人のようだと喩えられるけれど、どんな神も美徳を守ってくれないのなら、神は美徳ではなく悪徳なのでは!?なんて思ってしまう。
人には美徳、悪徳、両方の一面があると思うけど、美徳を持ち続けるというのは嘘も誤魔化しも効かないし、悪徳が嘘や策略、力技で美徳を壊してやろうと近寄って来たり、魔が差すと言うように自分の中の悪徳がふと背中を押して来たりするから外だけでなく内なる悪徳とも戦わねばならず本当に大変。
まして、美徳が頑張れば頑張るほど悪徳は破壊する楽しみが増してしまうのだから、美徳に勝ち目なんてほぼないに等しい。
諦めて悪徳に染まってしまえば楽になるよ。
さぁ、こっちへおいで、クッキーあるよ。
なんて、甘い誘いに惑わされ悪徳に身を染めてしまったら、いっそ開き直ってしまうのも一案かもしれない。
作中で人を陥れるタイプではなく奔放なタイプの悪徳だったご婦人が、美徳なんて何の得にもならない信念なんてさっさと捨てて、楽しむだけ楽しんで、年老いてしまう前に綺麗なまま美しい花に囲まれてオサラバするのよなんて、最期の時を近親者に囲まれて過ごす様子は、悪徳もここまで行ったらかっこいいなと思った。
長くなりましたが、私のお気に入りの1行はこちらのヴェルカン夫人の最期の言葉にします。
ヴェルカン夫人のお墓には『彼女は生き終えたり』とだけ刻まれたそう。
かっこよすぎるヴェルカン夫人。
法律や社会一般的なルールはあれど、それに抵触しない、他人に迷惑を掛けない範囲での悪徳は、個々の信念や理性に依って変わるものなのかも知れないね。
京都の魔窟的古本屋さんはこちら。
靴を脱いで上がるタイプで、友人と一緒じゃなかったら絶対に入ってなったので、この本に出会えたのは友人のおかげ。
最近古本屋を始めた友人のお店はこちら
三重県だけど、メルカリやヤフオクもあるので是非覗いてみてね。