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「消費されていないか」
「消費されていないか」
とある先生と話していて、この言葉に引っかかったことがある。
生徒と探究活動やプロジェクト学習を進めていると、「偏差値」「(部活などの)大会成績」では測れない生徒の可能性に出会うことがある。(それも、すんごい可能性)
社会との繋がりを持つと、大人たちは彼ら彼女らにたくさんの力を貸してくれる。(これは本当にありがたいこと)
一方で、その生徒や、生徒の持つ可能性が、大人に、社会に「消費されているのでは」と感じることもある。あるいは、自分が、学校が「消費してしまっているな」と感じることもある。
例えば、以下のような感じだろうか。
良い実践例としての誇示
さまざまな場面で、「こんなにすごい活動している生徒いるんですよ!」と出しまくってしまうこと。悪気はない場合が多いんだけどね。
学校催事に使われすぎてしまう
「あの生徒ならやってくれるだろう」と、なんでもかんでも、役割を与えてしまうこと。もちろん、その生徒が生き生きしていれば何の問題もないし、「活躍している」との境目は難しいと思う。
募集活動のための広告
学校の広告塔として、露出しまくってしまうこと。もちろん誇らしいんだけど、生徒の気持ちも慮らないとね。
依頼の殺到
例えば、絵を描いていれば、「描いて欲しい!」ってリクエストが殺到しちゃうとか、取材してる場合は「うちも!」ってどんどん言われちゃうとか。(これもありがたいことなんだけど…)
あとは企業が主催しているイベント事やコンクール、インターンなどで、稀に参加者が少ないと、直接獲得しにくる例などがある。そういう時に、安易に「彼ならいいんじゃない?」って繋いでしまうことってある。
「早熟型の世界」
この話の時に、ふと、以前為末大さんが書かれていた「早熟型の世界」というnoteを思い出した。
一部を引用します。
周りを振り返ればあんなに周りにいたはずの大人たちが去っていることもあります。早熟型の不幸の一つは、周囲の大人が興奮して我を忘れてしまうことです。私は幸いにして、良い指導者と、あたたかい環境に恵まれ、競技者としてより、一人の子供として青春をきちんと体験できました。それがなければどうなっていたことか。
私はその後、ハードルに転向しメダルを二度とりました。うまく自分に合う場所を見つけられたのだと思います。ですが、あの時に形成された価値観は今も大きく影響しています。
世の中の注目や賞賛がいかに脆く儚いものかということ。世間の評価に自分の居場所を見出した時、人は空気に迎合し崩れていくということ。いい時は冷めること。悪い時は楽観すること。全ての絶望は期待するから存在するということ。
いつピークが来るのが幸せなのかは、多分人生の終わりまでわからないのだと思います。前に来ても後ろに来ても、どちらも違った荷物を背負います。
決して、その生徒が「早熟型だから」と言っているわけではない。
注目して欲しいのは、社会(大人)と子どもとの関わり方のことである。
時々、俯瞰的に見てあげること
子ども達の生き生きする場を作ったり、社会との接点を見出すのは、我々大人のできることである。
一方で、
生徒やその生徒の可能性を「消費して」いないか。また、関わる大人に、社会に「消費されて」いないか。
時々そう言った視点で見てあげることは、生徒一人ひとりを守ることに繋がるかもしれない。
一方、逆の場合も
この話を書いていて思い出したことがある。
以下の方のFacebookの投稿を読んでほしい。
一部を引用します。
中学生や高校生からいじめ問題の課題があって、取材をさせてくださいという直接の連絡があります。
それは、もう選んでくれてありがとうね、というのが第一にあるのですが、
よくよく考えると、授業の一環なんですよね。
先生方、学校の運営の方々、
あなた方はなんの挨拶もなんの連絡もしないんですね。
今まで挨拶や連絡があったのはほんの一握りです。
少なからず、私は時間を使います。
会社の社長って時給に換算するとどのくらい稼ぐか知ってますか?
正直、普通の取材は当たり前ですが取材料をいただきます。数件ほどなら、協力するのはやぶさかではないけど、あまりに多いと、おいら仕事にならなくなります。
その辺、先生方、学校の方々、わかってますか?と思います。
なんか、なんでも無料、こどもたちが求めてたら協力するのは当たり前的にやられると
なんか違うなーと違和感があります。
こどもたちはいい子たちが来るので、がんばれよって思うんだけど、この先の先生とか校長とかそれでいいと思ってんの?と社会人としては思うところなんです。
当然ですよね。
世の中の探究的な学びとかプロジェクト学習的な実践が増えてきました。
探究とかPBLとか、推進派なので、すんごく良いことであると思う一方で、上記のようなケースがあることに初めて触れました。
ごく、当たり前のことなのですが、個人的には、ともすれば抜け落ちてしまっていた視点かと、襟を正す想いでした。
学校も社会を消費しないこと
この投稿に対して、もう少し深めてくれたのが以下の投稿です。
一部を引用します。
LCLでも伝えていますが、社会や地域の人は「学習材」ではありません。アンケートやヒアリングをするだけしてなんの課題解決もしないのであれば、どこかの行政と同じです。そんなことを子どもたちにさせてはなりません。
教師の皆さんは生徒たちが可愛くて仕方がないので、社会はこのくらいのこと(失敗)は許すだろうと自分基準で考えますが、そんなことはありません。社会の人たちは子どもたちを「育てる対象」ではなく、「対等なパートナー」だと考えます。何か一緒に活動して、社会にプラスなら喜んで引き受けますが、自分を消費されるだけだと感じたら、2年目はありません。
マイプロ型で子どもたちを社会に放つなら、フィールドワークの基礎をしっかり教え、徐々に対象を広げるなど丁寧にしたほうがいいです。もしくは子どもたちがまだ十分に力がついていないと思ったら、コンタクトのときに教師がフォローするのはアリです。そうしないと、たぶんそのうち社会から総スカンをくらってしまいます。こういってはなんですが、いわゆる進学校の子でもリサーチが足りていないケースが多いです。(忙しい中、片手間にやるからでしょうか)私は探究/PBL推進派なので、そのことが怖くて仕方ありません。そのうち首が締まるのは教育の側です。
とても示唆に富むコメントでありました。
社会や地域の人は、学習材ではありません。当たり前です。
こちらも「消費」してはならないのです。
私自身、振り返ってみれば、消費してしまっていたかも、ということはいくつかあります。「社会はこのくらいのこと(失敗)は許すだろう」という自分基準でプロジェクトを進めていたこともあろうかと・・・。
やはり時々、俯瞰的に見てあげること
この点に関しても、
学校や学校活動は、社会を地域を学習材のように「消費して」いないか。
時々そう言った視点で見てあげることなんだろうと思います。まわりまわって、生徒一人ひとりを守ることに繋がるかもしれないですしね。
みんなが気持ちよく学びを進められる社会にしていきたいです。