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夕暮れの墓と桜

 春。
 この季節になると思い出すことがある。

 あれは、日が傾いて空が橙《だいだい》色に色づく時間。
 東京の、ある大きなお寺の、あちこちに満開の桜が咲く墓地の横を歩いていた。
 お寺と墓地の間には車道が通り、観光客と思しき人たちが何人か歩いている。
 桜の花が散る中、作務衣《さむえ》を身にまとったおじさんが竹箒で道を掃いているのに気づいた。
 お寺の人かなと思った瞬間、不意におじさんが顔を上げ、目が合った。

「私はね、こうやって掃除をさせてもらってるんですよ」
「へぇ、そうなんですね」

 信心深いおじさんなんだな。

「ここのお墓、見た?」

 突然そう問いかけられて、反射的に返した。

「いいえ?」
「じゃ、案内してあげるよ。ついてらっしゃい」
「え?」
「早く」

 おじさんは竹箒を持ったまま歩き出す。
 周りに通行人が多少いたのだけれど、誰も我々のことを気に留めていない。
 仕方なくおじさんのあとを追って墓地の奥に向かいながら、考えた。
 急所はあそことあそこだから、こうこられたらこう返して……。
 シミュレーションは大事である。
 夕暮れの墓地に人気はない。まったくない。
 奥へ奥へと進んでいくおじさんについていきながら、この人は本当にこの世のモノなんだろうか、という疑念が湧いてくる。
 このままついて行ったら、どこか別のところに入り込んでしまうのでは。
 徐々に暗くなっていく墓地をおじさんは確かな足取りで進み、時々立ち止まる。

「これ、この墓、誰のかわかる? ほらここに書いてあるでしょ、●●。すごいでしょう。これはね、見ないと損するよ」
「これは××の墓でね〜」
「これは○○の墓。なんでこんな形なのかっていうとね…」
「これなんかは見るだけで誰の墓かわかるよね」

 広い墓地をめぐりながら、たくさん並ぶ墓石の中に点在する満開の桜が風に散っていく。
 昼と夜の狭間から夜の領域に入りはじめた墓所。
 あちこちに植えられた桜はぼんやりと白く浮かび、花を散らす風がひんやりと冷たい。

「桜、綺麗ですねぇ」
「綺麗でしょう。いまの時期は本当に綺麗でね」
「そうですね」

 応じながら、心の中で叫ぶ。

 ずっと見ていたいよ!ここが墓場じゃなかったら!

 歴史に名が残る人の墓、つい最近まで存命だった有名人の墓、ある業界では知らない人のいないという人の墓、一般の人だけれども個性的で見応えのある墓…。
 おじさんはそれはそれは楽しそうに私を連れ回す。
 このおじさん、私にしか見えてないとかだったら嫌だなぁと思いながら、それはそれとして、眠っている方々に失礼のないよう気をつけながら墓場散策を満喫。
 完全に日が落ちた頃、切り出した。

「あの、そろそろ…」

 心得たという顔で、おじさんは元の場所まで案内してくれた。
 無事にこの世に戻ってきたことに心底安堵しながらお礼を述べる。
 と、おじさんは上機嫌で言った。

「また案内してあげるよ」

 お寺の方に人影が見えた。
 道にもわずかに人がいる。
 おじさんに頭を下げて、その場を離れた。
 竹箒を持ったおじさんは、墓地の方に歩いていくようだった。
 その姿が見えなくなってから呟いた。

「良かった、この世の人だった」

 しばらく歩いて、車がひっきりなしに行き交う大きな道に出た。
 チェーンのレストランの看板が目に入った途端凄まじい空腹だったことに気がつき、ふらふらと入り口に向かった。

 翌日。
 昨日こんなことがあったんだよ、と友人たちに話したら。

「ええええ⁈ 私何度もあの道通ってるけどそんなおじさん見たことないですよ⁈ それ、本当に生きた人間だったんですか⁈」

 ………えええええええええ…。


※以前公開していたものを再アップしました。

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結城光流
興味を持ってくださってありがとうございます。 執筆の資料や執筆中に飲む紅茶代などにさせていただきます。