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「詞華美術館」---塚本邦雄


これまで読んだ塚本の著書は、憧れの後鳥羽院の歌物語「菊帝悲歌」だけ、そこで新たに「詞華美術館」を手にした。全部で27題、それぞれの題に沿った言葉の断片が展示され、概評とも論評ともいえる鑑賞案内を書き送っている。それら言葉の断片は古今東西から縦横無尽に蒐集され、ここに塚本の博学多才が披露される。タイトルにあるように、さながら言葉の美術館の趣、塚本館長の驚くべき審美評に舌を巻く。旧字体歴史的仮名遣いのため、決してさらさらとは読めない。しかしこれによってかえって、ひとつひとつの作品を味わうように吟味することができよう。

虹橋變こうけいへんなる「橋」にまつわる美術品のなかに、近松の「心中天網島」の有名な橋を渡る道行文のあとに、三島の短編「橋づくし」が展示されていた。橋を渡る途中で警官に腕をつかまれ、橋のむこうを痛恨の目つきで見やる場面である。これに対する塚本の評はきわめて印象的なもののひとつだった。

…若者はその姿を見てこひふる。少女は知らずに遠ざかる。山藍摺の上衣の香が漂ひ、丹塗の橋は陽に映える。彼女は振返らない。何者かに視つめられてゐたことを彼岸に著いてから感じる。若者の心は少女に無限に近づきつつ決して觸れることはできない。そしてある日橋上で二人は遭遇する。嬉嬉として、萌黄の裳を翻し、腕には嬰兒を抱へて、彼女は微笑を浮󠄁べながら摩󠄁れ違はうとする。身は無限に近づきつつ、この時若者の心はもはや離れて行く。橋はすべてを繋ぐ。絕つべきものをすら繋ぐ。左岸の人生と右岸の人生は橋によつて結ばれ、蘇り、ある時は傷つき滅ぼされる。

「存在の儚さを言葉にして言へばもはや詩ではない」という塚本だが、しかしここでは、他ならぬすれ違いの儚さが橋渡しされている。その儚さは無慈悲にも清廉で潔癖にみえる。死や没落を宿命づけられたあらゆる存在について語ったとき、それが詩ではないとすれば、それはこうして言葉の美術品として、言葉の彫琢として飾られるほかない。

あるいは塚本の、きわめて華美典雅な言葉の展観言触ことぶれであろう。いかなる技法でもっていかなる対象を描こうとも、平面絵画芸術はどこまでも二次元であり続けるが、塚本のこの言葉の美術品を読むと、言葉という言葉は、ともすれば立体的/彫塑的に迫ってくる。





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