さやうなら


難解だとされる伊東静雄の詩。しかし、繊細で儚く、かろうじて均衡を保っている感情は、じっくり読めばいつしか紙面に浮かび上がってくる。特に言葉のつながりが美しく、こうした詩を書ける現代人がいるのかどうか、私はよく知らない。叙情性と物語性の調和も見事で、伊藤の作品のなかに、言葉でできた詩ではなく、詩人の身体まるごとを見るような思いがする。

太平洋戦争敗戦後の1946年に書かれた「夏の終わり」という名作では、詩人の生き生きとした息づかいが一行一行から伝わってくる。実にゆっくりとしたリズムで時間の流れが表現され、穏やかな雲の動きと一致する「……さよなら……さやうなら……」という印象的な句は、それでも空に流れて漂う唯一の雲が、彼の孤独と同一視されているかと思われる。

「夏の終わり」

夜来の颱風にひとりはぐれた白い雲が
気のとほくなるほど澄みに澄んだ
かぐはしい大気の空をながれてゆく
太陽の燃えかがやく野の景観に
それがおほきく落とす静かな翳は
……さよなら……さやうなら……
……さよなら……さやうなら……
いちいちさう頷く眼差のように
一筋光る街道をよこぎり
あざやかな暗緑の水田(みずた)の面(おもて)を移り
ちひさく動く行人をおひ越して
しづかにしづかに村落の屋根屋根や
樹上にかげり
……さよなら……さやうなら……
……さよなら……さやうなら……
ずつとこの会釈をつづけながら
やがて優しくわが視野から遠ざかる


伊東が見送った雲は、詩人に無言の別れのあいさつを告げた。
わたしはふと、俯いてばかりでもう何年も夏の雲を見上げなかった気がした。



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