
鴨居玲、あるいは生の肖像
排ガス自殺するまで、とくにその晩年は自殺未遂を繰り返しながら専ら自画像を描き続けた。それらは暗い闇の中から突然ギョッと現れたかのような不気味さがあり、またそれが死んでいるのか生きているのか分からないほど表情がない。画家・鴨居玲。素顔はハンサムな伊達男で知られた。しかし一方、死にとりつかれたようなそのデスマスクは、闇の中で生の様相を帯びる。死に抗うこと、それすなわち、生の最も本質的な力だからだ。
「廃兵」と題されたこの作品だが、これを初めて見たときの衝撃は忘れられない。廃兵というからには、戦後引き上げてきた一兵に違いない。手前左腕を失っているが、しかしその表情を読み取ることはできない。禿げた白髪だけがその齢を仄めかすにとどまっている。ただひとつ、この廃兵と世界とをつなぐのは地に置かれた空き缶だけだ。その一点を頼りに、せむしのまま、うつむく老いた廃兵。しかし私にはこの廃兵が目を伏せたまま、キリっと口を真一文字に結んでいるように見えてならない。ここに廃兵の気位、それでも一人の人間としての自尊がありはしまいか。これこそ人間を人間らしくしているものであり、明日やってくるかもしれない死に対する、唯一で最大の抵抗ではなかったか。その抵抗は、世の中との唯一の接点である物乞いの空き缶などではない。
鴨居は、死に苛まれながらも最期まで生に執着した。闇の中にあってさえ、いやそれだからこそ、人は生への欲望を抱く。この廃兵の座と見えない口に結ばれているだろう一文字の矜持は、おそらく画家が見つけようとした生の形式だったのではあるまいか。
もの言わず、ひたすら座すこの廃兵のなかに、私は人間の生の尊厳を見たような気がした。これを描いた鴨居もまた、命をかけて全き画家の生を送った。画家はこの廃兵同様、死んだのではなく、最期まで生きたのだと。