最期の冬の置き手紙
遠祖から源氏の宅地として世に伝わる西八条のある寺から、ひとつの櫛笥が見つかった。何百年と時を経て深い艶をたたえた漆黒に青貝磨りのその箱には、置文がおさめられていた。鎌倉右大臣実朝公の正室、のち落飾してからは本覚尼と呼ばれた、かつての坊門家の姫の手になるものだと推察された。
西行法師が詠んだ、願はくは花の下にて春死なむ その如月の望月のころ 最期をそのようには望まず、凍てつく冬の寒空のもとでの死を願った尼は、生涯忘れえぬ冬について記している。ひとつは十歳の冬、それまで里にて乳母と過ごすも本邸に迎えるべく父・信清が訪れ、四条大路の西を寂しく流れる親しみの御室川に別れを告げた冬。もうひとつに十三歳の冬、三代将軍実朝の妻となるべく鎌倉に下向した際、京を離れる名残惜しさよりも未知なる東国への恐怖におののいた冬。老尼は、その生を終えるにあたり、過ぎし日の冬の思い出を淡々と書き送る。
そのなかにひとつ、きわめて興味深い件を読んだ。将軍ゆえに痛ましさきわまりない孤独に陥っていた実朝が、陣和卿なる宋人にそそのかされ、宋船建造に乗り出し、鎌倉の柵と死の恐怖から逃れようとしたときである。実朝は宋に渡ることに本気で、それでいて玩具を手にする無邪気な子供のようだったと述懐している。すると、由比ノ浜にいざ船おろしをする当日、尼のもとに誰からとも知れずひとつの謎の文が届けられた。それはきわめて美しい文字で書かれた歌だったという。
大み船 ただに漂ふ なぎさかなしも
あたかも凶の予言のような歌だが、しかしこれは現実となった。船は押せども動かず、引けども浮かばず、そのまま打ち捨てられてしまった。そうして船は砂頭に朽ち、実朝の夢は夢で終わったが、数年後、尼に仕えていた侍女からあの船はもともと浮かばぬように造られていたと聞いたとある。この侍女がこのことをどこで知ったのか無用な詮索はしなかったというが、夫である実朝公は、つまるところ鎌倉から、自身の運命から逃れられない定めだったと、そう追憶する。
そして最後の冬、建保七年正月二十七日、右大臣拝賀の大雪の日、実朝公の最期については、雪の下に埋もれたままにしたいとして、もはや語らず、欠文のまま白紙となっている。これまで伝わっている史実から、あるいは期せずして縁が結ばれた源氏の血の重み、一方では京公家の身分でありながら、見知らぬ東国へ嫁いでいった一女性の品高き凛然さがあったのではないかと、僭越にもこの余白に見る。
鎌倉での十五年間を将軍家御台所として生き、実朝公亡きあとその亡魂を弔い続けたこの本覚尼は、一二七四年、京都大通寺で寂した。八十四歳だった。願い通りこの日が寒天の冬だったのかどうか、今日まで記録が残っていない。