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オープンDの音色を追って 80 ~GAROとはっぴいえんどと日本語ロック論争~

(約4分で読めます)
 先日、ターミナル駅のビルに立ち寄りました。
 そのビルは、同じフロアにディスクユニオンと書店があります。書店は小さめの店舗ながらディスクユニオンの影響か、音楽に関する本を多めに置いています。
 その日も棚の目立つところに、はっぴいえんどが表紙の本が飾ってありました。
 そういうのを見ると、なぜ同時代のGAROの本はないんだろう、と思います。
 はっぴいえんどがなぜ今も取り上げられるのかといえば、解散後もメンバー四人全員が音楽界に残って成功をおさめたからなのでしょう。
 GAROファンの方には言わずもがなですが、GAROの曲では『学生街の喫茶店』ほか複数で細野晴臣がベースを弾いています。
 1971年中津川フォークジャンボリーのライヴ盤では、GAROの出番中、バックグラウンドに「はっぴいえんどの細野さん、次出番ですのでメインステージへお願いします」という場内アナウンスが入っています。
 これほど縁の深い細野晴臣とGAROです。
 また、一時GAROのバックバンドでドラムを担当していたのが高橋幸宏です。高橋幸宏はマークのソロアルバム『時の魔法』(2013)にも参加しています。

 二年前の産經新聞連載「話の肖像画」では松本隆が取り上げられていました。
 その中でGAROと関係のありそうな部分を以下にまとめます。

●細野晴臣との出会い
 僕(松本隆)が慶応大学に進学した頃、組んでいたバンドに欠員が出た。そこで立教大学で「天才ベーシスト」と呼ばれていた細野さんに声をかけた。
●大学二年になったとき、グループサウンズの生き残りの『ザ・フローラル』からベースとドラムが抜けるから僕と松本で入らないか? と細野さんから誘われて加入した。そこには小坂忠がいた。
●『ザ・フローラル』はGS路線をやめてロックバンド『エイプリル・フール』として仕切り直した。グループ名は、レコーディングが四月だったことから。
●『エイプリル・フール』は方向性の違いでレコード発売とともに解散。そのあと僕と細野さん、小坂忠と、当時高校生だった鈴木茂の四人でやるつもりだった。しかし忠がブロードウエイミュージカルの日本版に出演することになり、離脱。計画は頓挫。

 ここまでがはっぴいえんど前夜です。
 ミュージカル『HAIR』はGARO結成のきっかけになっただけでなく、はっぴいえんどの前身バンドにも影響していたのです。

 話は「日本語ロック論争」に及びます。
「日本語はロックのメロディーに乗らない」とする英語派と「ロックも自分たちの言葉でやらなければ意味がない」とする日本語派とが対立したのが、1970年代前半の音楽シーンでした。
 この論争は、はっぴいえんどの『風街ろまん』(1971)の成功をもって沈静化したそうです。
 私が見た本の表紙も『風街ろまん』の有名なジャケット写真がモチーフでした。

産經新聞 2022年12月6日

英語か日本語かは趣味の問題だとは思うんですが、コピーばかりだと進歩はしないという考えは曲げませんでした。
ロックをやっている人たちの多くは、かつてグループサウンズでやっていました。英語のロックをレコードで出しても売れませんから、レコードはグループサウンズ風の歌謡曲で出し、ステージやライブでは新しい洋楽のコピーをやっていたんです。
(中略)
僕たちは日本語で、ビートルズやローリング・ストーンズと同じレベルで音楽を表現したいと考えていました。その結果、シングルが売れなくても仕方ないと最初からあきらめていました。僕たちの考えの正しさは、後の歴史が証明してくれたんじゃないかと思います。

産經新聞 話の肖像画 作詞家松本隆 2022年12月6日

 これもまさにGAROにも起こっていた現象です。
 グループサウンズの多くがビートルズやストーンズをレパートリーとしていたところを、GAROはCSN&Yだったのです。
 アルバム『GARO2』(1972)でB面が洋楽の日本語詞カバー曲になったのも、上記の論争と無関係ではないと思います。
 当時は制作側が「日本語でないとリスナーにわかりにくい(ウケない)」と判断していたのではないでしょうか。
 それにしてもビートルズの有名曲『Let It Be』『Because』に日本語詞をつけたのは思い切りましたね。

GARO2 曲目一覧

(つづく)
(文中敬称略)

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