オープンDの音色を追って 7
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前回に続き、イタリアンレストラン・キャンティとその周辺の話です。
参考文献:『キャンティ物語』野地秩嘉/幻冬舎(1994)
キャンティは東西文化交流をなりわいとする川添浩史によって1960年、飯倉片町のビルの地下一階にオープンしました。
店名はイタリアのワインから。主にトスカーナ州のシエナを中心に造られている赤ワインのことです。
同じビルの一階には、ブティック・ベビードールが同時にオープン。
まだブティックという言葉が一般的ではなかった時代のことです。
このブティックはグループサウンズの衣装を作ったり、服だけでなく輸入物の雑貨も置いたりしていました。
ザ・タイガースやザ・テンプターズの衣装を仕立てていたこの店で、マークとトミーも舞台衣装をオーダーしていたのです。
彼らがプロのギタリストとして活動し始めたときには、まだグループサウンズの流行が続いていました。
現にマークはザ・サベージとして「エレキギターの早慶戦」というイベントに出たことがあるとblogに書いています。
ですから二人はグループサウンズのファッションをお手本とすることに抵抗がないのです。
しかしボーカルは「音楽だけやろうよ」というスタンス。なのでアイドルっぽい恰好はしませんでした。しかし、ボーカルのファッションセンスはさすがセツ・モードセミナーに通っていただけあると思います。帽子の取り入れ方など、お洒落です。
さて、そんなマークがキャンティへ行ったことがあるかというと……。
『ヘアー』以前にはキャンティには行っていないようですね。
「高かったから」とありますが、『キャンティ物語』によると、川添夫妻は才能のある若いアーティストには「出世払い」「あるとき払いの催促なし」で食べさせてくれたそうですよ。
きっとマークにならそれが適用されたはず。
また、六本木のピザのニコラスは今はありませんが、そこで修業した方が埼玉で「ピッツァ&パスタるーぱん」を展開しているので、味は受け継がれています。
そして、今でこそバジルは普通にスーパーにも置いてありますが、当時は流通していなかったので、キャンティでは自家栽培をしていたそうです。
それまでの「スパゲティ」といえば、ナポリタンかミートソースの二択しかありませんでしたからね。
キャンティとベビードールは芸術家、文化人のサロンの意味合いを持っていました。
出入りする才能のある若者たちは、川添浩史をパパ、梶子をタンタンと呼んでいました。
タンタンとはイタリア語で「おばさん」のことです。
梶子はローマの美術学校で彫刻を学んだ後、浩史と出会い、結婚します。
高い美意識を持った彼女は、キャンティの内装も一部手掛けました。
松任谷由実(当時は荒井由実)はベビードールでの思い出をこう語っています。
また、別のときには、
『キャンティ物語』によれば、梶子は加橋かつみや萩原健一を気に入っていたそうです。
私は以前萩原健一の著書『ショーケン』を読みましたが、キャンティや梶子のことについては記述がなかったと思います。
上記のように鮮烈なエピソードがあるのに、ショーケンの記憶にはあまり残らなかったのでしょうか。
なんとなくですが、梶子がGAROのメンバーを可愛がってくれるとしたら、トミーがお好みのような気がします。
(つづく)
(文中敬称略)