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『無の感情』の結末

いつごろからだろうか……多分、子供の頃。私は感情を『無』にする技を習得した。
それは、嬉しい、悲しい、といった、特に悲しいという気持ちを感じたくなかった幼い頃、母親からの冷たい言動に傷つきたくなくて、感情を無にするようになった。
そしたら、母親から何を言われようと傷つきもしない、悲しくもない!
それは私にとって生きていく上でとっても便利なものになった。

大人になり、摂食障害や鬱に悩んでいた頃、旦那に「自分の感情を出していいんだよ!」と言われ、少しずつ自分の気持ちを言葉にするようになっていった。子供が産まれ、赤ん坊が自分の感情を露わに泣いたり笑ったりしているのをみて、ああ、こんな風に感情をだしていいんだ!と思ったのを思い出す。

有り難い事に、3人もの子供に恵まれ、私も自分の気持ちを存分に口に出せるまでに成長していった。口喧嘩なんか出来なかった幼い頃の私が嘘のよう。今では堂々たる口達者ぶりだ。

ところが、最近、すっかり忘れていたあの『無の感情』が現れ始めた。
子供達の成長と共に訪れる大事な岐路、期待と失望、親子間の気持ちのズレ……等が知らず知らず私を追い込んでいた。

私の心が弱いが為に、子供達の進路にいちいち感情が揺さぶられる。ドーーンと構えていたいのにそれが出来ない私の心の弱さ。弱って傷ついている姿を見られたくない一心で、気づいたら感情を無にしていた。

感情を無にすると気持ちが楽になる。
楽に生きていける。
何も考えなくて良くて、悲しくなんかなくなる。

最強だ!

と思っていた。

だが、今日娘や息子に言われた。
「ロボットと暮らしてるみたい」だと。

何を言っても楽しそうじゃないし、喜んでくれない、一緒にいても楽しくない!と。
お母さんが楽しそうだったらこっちも嬉しいし、話しようって気持ちになるのに、何話しても興味を持ってくれないのが悲しい……と。

「ヘェ~、そうなんだ!」くらいの相槌は打っていたと思っていたのに、子供達にこんな風に思わせていたなんて……無の感情で、何もかも気付かなかった。

無の感情には元々犠牲は付き物だ。悲しみを感じない分、楽しみも感じることはできない。でもそれでも良いと私は思っていた。いつの間にか、洗濯や掃除、3食の食事といった物質的な面が満たされていればそれで良いのではないかと思うようになっていった。
とにかく辛くなりたくない、ただそれだけ。もう泣きたくない。

そう、ただ逃げてるだけだったんだ、自分自身の人生から。

こんな歳になってから気付かされた!

無の感情で周りの人達が傷つく事を。
子供に対して過度の期待もせず、何も思わない分傷付けるような事も言わなくて済むのに。まさか子供達を傷つけていたなんて気付けなかった……


娘、息子が私に言ってきた。
「もしかしたら明日楽しい事嬉しい事があるかもしれないのに、感情を無にして気付かないなんてもったいないよ!」
「どんなにお金持ちでも、どんなに綺麗に掃除された家でも、ご飯がきちんと食べれても、お母さんが楽しそうじゃなかったら何も意味がないんだよ!」と。

そんな事、わかっていた……、はじめから知っていた事なのに、ここ一年ほど、本当に色々な事がありすぎて精神的にボロボロな上に、コ○ナが私に追い打ちをかけ、私は正常な精神状態を保とうと『無』を選んで何も感じないように、感情を押し殺してしまっていた。

それは、正常ではなかった。
子供達を苦しめ、悲しませていた。
悲しませることは少し考えれば分かる事なのに、それすら気づくことが出来なかった……

こんな弱々しい母親で本当に申し訳無い。こんな歳になってもまだまだ子供達から教えられる事は多いな…まだまだ私は成長途上。
子供達がいなかったら今の私はいない。もしかしたら弱すぎてこの世にすらいなかったかもしれない……
子供達、たくさんありがとう!
やっぱり子供達を産んで良かったな。

子供達を悲しませていた、凝り固まった『無の感情』を、また少しずつ溶かしていこうと思う。。。


最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

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