古事記より イザナギとイザナミからみる「愛」のカタチ
大学の課題で書いたレポートです!
簡単に、分かりやすく、をモットーに書いたのでnoteにも投げてみることにしました。1年以上古事記については学んだり自分で解釈をしてみたりとかなり頑張ったので、古事記入門のような感じで、気楽に読んで頂けたら幸いです。
イザナギとイザナミ仲睦まじく国産みをしていた。しかしイザナミはある日子を産み亡くなってしまう。愛しい妻に先立たれたイザナギは、汚れたところにあるとして忌避されていた黄泉の国へ、イザナミを迎えに行く。
「愛しい私の妻よ、まだ国作りは終わっていない。だから私と一緒にかえろう」戸口からイザナギが語りかけると、「早く来てくれなくて残念だわ。だけど、あなたが迎えに来てくれたから、かえろうと思うの。黄泉神に相談してくるから待っていて。わたしの姿を見ようとしてはだめよ」イザナミはそう答えると、戸口の陰から中へと戻っていった。ひとつの約束をしっかりと言い置いて。…しかしイザナギは黄泉神に会いに行ったままなかなか戻らないイザナミを心配して、約束を破ってイザナミの様子を見てしまう。するとそこには黄泉の国へ来たことで醜く変わり果てた妻の姿があった。こんなのは私の愛するイザナミではない、と半狂乱になったイザナギが逃げると「わたしの恥ずかしい姿を見たわね…!」怒り狂ったイザナミはたくさんの追っ手を差し向ける。最後はイザナミ自らがイザナギを追いかけるが、すんでの所でイザナギは道に千引の石をおいて塞ぎ、ふたりはその石をはさんで離別の時を迎える。イザナギが石の向こうへ語りかけた。「愛しいわたしの旦那様、あなたがそうしてわたしを追い払うのなら、あなたの国の人間を、一日千人殺すわ」「愛しい私の奥さん、きみがそうするのならば、私は一日千五百人産もう」こうしてイザナミは黄泉の国を統べる大神となり、人間は産まれ、やがて死ぬ理ができた。
物語だけ聞くと、イザナミのことを残忍だと思うかもしれない。しかしイザナミが「千人殺す」と言ったのは、ただただイザナギを憎んだからではなく、「だから愛しいあなた、人が死ぬ度にわたしのことを思い出して。わたしのことを忘れないで」という、究極の愛の告白なのではないだろうか。醜い身体になってしまった。だからもうイザナギの側には戻れない。ならばせめて、千引の石の向こうとこちらに別れても、毎日わたしのことを思い出して――。「愛してる」という言葉が聞こえそうなほど一途で真っ直ぐだ。また、イザナギの国の人を死という形で黄泉の国へ連れてくることで、イザナギの様子を死人たちから聞こうとしたのではないだろうか。些細なことでも構わない、愛しい夫のことを聞きたい。そんな切実な願いさえあっただろう。それに対しイザナギは、「千五百人産む」と答えることで、嵐のように激しいイザナミの愛を受け止めたのではないだろうか。深い度量を示し、「私もきみを愛しているよ。毎日きみのことを思おう。だからきみが千人殺す度、その人々の親であるわたしのことも思い出してくれ」と、イザナミと似た願いをも持っていたのではないかとすら思う。
究極の愛を貫いた二神の姿に、物事に対する一途さを見ることができるのではないだろうか。
また、愛し合いながら『死』によって引き離されたふたりは、『生』あるうちに愛を伝える必要性を教えているのではないだろうか。ふたりは結婚するときや呼びかけるとき以外、お互いに具体的な愛の言葉を伝えていない。だからこそイザナミはこの先二度とイザナギにあえないことに絶望し、生前聞くことのなかった愛を、思い出すという行為で示してほしいと願ったのだろう。
二神によって生に限りをもつことになった私たちに、愛を持ち、そして伝える大切さを、身をもってふたりは教えてくれているように思う。
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