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誰かと月を見ること──高円寺の天窓とケニアの海辺から

偶然居合わせた人と月を見たこと、ケニアでの大晦日のこと。

「あ、月がきれいですよ」

午後10時。コワーキングスペースから帰ろうとすると、そう声をかけられた。

「え、どこですか?」

「そこです。あれ、そっちからは見えないのかな」

指をさす先には、真っ暗な空しか見えない。扉の前から引き返して、彼女のうしろにまわる。私より少し背の低い彼女の目線を追うと、天窓の先に、真ん丸の月が光っていた。

「あ、見えた! いい月!」

「え、どこどこ」

少し離れたところにいた、ストリートファッションの男性も、私たちのうしろにくる。

「お、これはいいね、天窓がきいてるね」


***


満月を見ると、人に教えたくなのは、なぜだろう。先月はたしか、居酒屋の帰り道に、夫に「お、満月」と言われた気がする。

月初に夫が単身赴任になってはじまった、久しぶりの一人暮らし。ごはんを食べても一人。商店街を歩いても一人。そんな調子で、昔の俳人のように、ふとすると寂しさが訪れていたから、「満月を見ても一人」ではなかった事実が、帰り道にじんわりと沁みた。

満月といえば人生で一番印象に残っているのは、10年前の大晦日に、ケニアの海岸で見たものだ。

真っ暗な海の少し上に浮かぶ、妙に大きな白い月。白い光が、月につづく道のように、波に静かに揺れている。



その日は友人と、海沿いの街に一人で暮らす日本人女性を訪ねていた。年越しはビーチでしようと、真っ暗な乗合バスに揺られて、海まで来たのだった。

バスには電気がなく、道沿いの店も小屋のような売店ばかりでネオンはない。売店の小さな灯りと、たまにすれ違う車のライトで、時折ぎゅうぎゅうに乗ったまわりの客が少し見える。肌が白いのは、私たちだけだ。急に遠い知らない土地にいるのだと、思い出す。

なんだか心細く寂しい気持ちになっていたから、砂浜に着いて、大きな満月にみんなで「わぁ」と言ったときは、安心した。

その夜は、「それにしても、すごい月だね」と何度も話しながら、満月を横目にひたすら長い海岸を歩いているうちに、年越しを迎えていた。


***


漱石は、「I love you」を「月が綺麗ですね」と訳した。

漱石の作品の主人公たちのイメージがあるからだろうか。この話を聞くと、ロマンチックな2人というより、目を泳がせてどきまぎと、隣の女性にこの言葉を言う青年の姿が浮かぶ。

今あなたの傍らで、同じ美しい月を見ているのが、嬉しくてたまらない。それは愛を伝えるというより、愛がつい溢れてしまった言葉のように思う。


偶然居合せた人であっても、一緒に月を見るとほっとするのは、これと同じ原理なのかもしれない。月がある。隣の人の存在に気づく。ついその人に教えたくなる。

そこには、親密な個人に向けた愛とはまた少し違う、人間ってつながっていたなぁと思い出す愛がある気がする。

ここにいて私は役に立っているだろうかとか、有益なことを言えているだろうかとか。そんな自分に向けた不安を忘れて、思わず傍にいる人に、美しい景色を共有している。

そんなふうに、話すことも書くこともできたらと思う。


満月の翌朝、ケニアの海岸


こちらの記事は、毎週末、配信しているニュースレター「日曜の窓辺から」のアーカイブです。(元記事公開日:2022.08.21)


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