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きれいになりたい!は、だれのための、なんのためのきれい?

現代に生きていて、美醜から離れて暮らすのはなかなかにむずかしい。
テレビからも、SNSからも、カフェで聞こえてくる話からも、「きれい」という言葉が溢れている。

ある小説を読んだ。婚約破棄された主人公が立ち直るためにこれからどうしたいか、リストをつくって、そのリストを支えに、周りに支えられて新しい人生を生きていく話だった。
そのリストの一つが「きれいになる」だった。物語が進むにつれて、「きれいとはなにか」、「なんのために、だれのためにきれいになりたいのか」が大きな命題、そしてその主人公をつくっていった。(私の拙い言葉では伝えきれない素敵な物語だからぜひ読んでもらいたい!)
この「ただきれいになりたい」→「そもそもきれいってなんや?」、「なんのために、だれのためにきれいになりたいんや?」へ物事を細分化していくプロセスが大切だと思った。

この物語を読みながら、「私にとってきれいとは?」、「これからどんな風にきれいになりたい?」と主人公と同じように、一緒に考えていた。
そこでまず、外見の、生まれ持ったものだけがすべてなのか?と問われたときにはNOと言いたい。

私は堂々と、私はきれいとは言えない。写真を撮られてきれいでいれてる自信はないし、できる加工ならしてほしい。きれいな人たちを見て、うらやましいと思っていないなんて言うと嘘になる。
ただ、羨んでいても変えられないものに時間を、気持ちを使うほど暇ではないという気持ちと同時に、私が思うきれいは外見だけではないということはこの時点で明白みたい。
それに自分のきれいさにすごく不満があるわけでもない。好奇心旺盛に物事をみれる目も、いろんなところで匂いを嗅いで季節やおいしいものを感じられる鼻も、楽しいときに笑ったり自分の意志を伝えられる口もある。それで結構満足している。ハードル低めがちょうどいい。
ただ、じたばたしないかというと、化粧をしたり、外見のきれいも求める。

老いていくことには逆らえないけれど、きれいな人たちはたくさんいる。そんな私が憧れる周りの人たちに共通するのは、外見の、生まれ持ったものだけでない “なにか” がしっかり備わっている。

「美しい唇である為には、美しい言葉を使いなさい。
美しい瞳である為には、他人の美点を探しなさい。」
                 オードリー・ヘップバーン

きれいさには、外見や若さに怠けているだけでなく、知性や人間性、経験が確実に必要になっていく。とくに年齢を重ねるごとに。
これはこの数年間で自分自身で実感している。強がっているわけではなく、ほんとうにそう思う。

ちやほやされるために、好かれるために、見返すために、きれいになる。
悪いわけではないと思うけれど、問題はあるのだろうなと思った。
なぜなら、他人基準だから。
私はどうしたい?
私はどんな人をきれいだと思う?
私はどんなきれいでありたい?

人のために、それが顔が見えない大多数のためなのか、はたまた1人のためだとしても、だれかの求める、その人(たち)が思うきれいになれなくても、自分が納得する、自分自身できれいだと思える自分でいたいなと思った。それを大切にできる状態でいたい。それも今の私のきれいをつくる一つの要素だなあ。
そうじゃないと、きれいなんて抽象的なものに抗えない。きりがないものだろうから。


この写真は留学先のカナダの大学寮内のトイレに入ったときに見つけたもの。鏡の横に貼ってあった。
“You look great!”は日本語ではなにが正しい訳なのかな。素敵だよ!みたいな感じか。素敵って言ってくれてる!
めっちゃいい貼り紙やんと思って思わず写真を撮っていたのを思い出した。
こんなんが日本のトイレにも貼ってあればいいのに。ということで、まずは実家に、4月からの新居はシェアハウスだけど貼ろうと思う。

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その服いいね、髪型似合ってるね、気遣い助かったなどなど、外見や内面をほめてもらったり、ありがとうと言ってもらえると「ありがとう、これお気に入りやねん!」とか、「そうやろ、自分でも似合ってるなと思ってるねん!美容師さんの技術すごいよね!」とか、「よかったー!私こそサポート助かったよ!」とかって答えてる気がする。
それが、厚かましいと言われたことがある。日本によくある、ほめられても謙遜する文化みたいなものを言われてるんだろうなと思いながら、ほめ合えてプラスの空気が流れてたほうがいいし、ほんまは気に入っているのに、下にみたり下げる言葉を使う必要はないと思う。
うちの愚妻が、愚息がとかもそう。愚かなんて言わんといてほしい。愚妻なんて言う人と結婚したくない。
まあ、その文化の中には自分から私ってかわいいでしょ?、俺ってかっこいいでしょ?と相手に求めるのは違うだろとか、加減は大事やでってとこもあるのかな。そこはそうやなと思う。

とりあえず、きれいでいたいみたい。けど、だれかのためじゃない、自分のためのきれいでいたい。
今も、30代になっても、40代になっても、50代になっても、100歳になっても。ただ、きれいすぎんくてもいい。たくさん経験を積んで、知性と人間性(人間味)のある、自分自身できれいと思えるきれいな人に。最近そんなことをふと思い、思い巡らせていた。

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