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みんなよりすごくなりたいという呪縛

1月13日は「成人の日」でしたね。
私が今、アルバイトとして働いているジェラート屋さんでは「みんなで新成人お祝いキャンペーン」が行われたし、町には「新成人応援キャンペーン」なども溢れていました。
キャンペーンと銘打って打ち出すものは基本的に経済効果を促す広告だけど、それでもカレンダーで祝日になっている「成人の日」を成人式に参加する当事者でなくても意識する機会に大いに貢献していました。もちろん、このnoteを書いている私にも。


みなさんは成人式に行きましたか?
私は成人式に参加しました。が、本当は行きたくなくて、コンプレックスを抱えながらでした。

小学校のとき、習い事は週6で、同級生と遊ぶ時間がありませんでした。
いくら習い事だからといってもいつも誘いを断るような子に何十回もアプローチしてくれる人もそうそういなくて、学校では孤立していました。まあ、勝手にそう思っていただけかもしれません。でもみんなとの距離はあって、のけものにはされていたのかな。
とにかく自分の状況をそんな風に捉えていたので、休み時間とお昼休みがつらくて、どうやってやり過ごそうと毎日だれに頼まれたのでもない言い訳を考えていました。

そんな中でも仲良くしてくれた友達はいたのに、そこに目を向けることはできてなくて、視点は「自由に遊べることが羨ましい、でも私にはその自由な時間がないから、みんなと仲良くもできない。うまくいかない」でした。
そしたら、みんなよりすごくなって「あのときみんなと遊んでなかったから、こんな風に成功したのね」と思ってもらえるようにと、羨ましさを将来の成功という形で肯定したいという気持ちが芽生えました。当時はその方法しか知らなくて、ここからすでにこじらせはじめていました。

それは中学生になっても、高校生になっても、多分成人式に参加した当時も変わらずでした。
小学校のときの同級生よりすごい、何者かになりたかった。
でもどんなことがすごいのかは、地位とか名声、お金みたいな一般的なことしか想像できていなくて、何者かとしか表現できないような得体のない何かになりたかったようです。
すごいことをしてのけものにした人たちを見返したいという気持ちがあった。
でもそのすごいことは、成人式で目に見える状態だと、大学のレベル?とか、なにかで名前が有名になっている?みたいな、すべての文に 「?」 がつくものでした。

勝手にそんなことを思っていた小学校時代の同級生がどんな風になっているのか見えてしまう成人式に行くのは怖くて、とくに成功した訳でもなにかを成し得た訳でもない、むしろたくさん失敗した状態で行って、同級生がキラキラした姿になっていたら受け入れられない気がしていました。


成人式当日はいろんな想像(だいたいは悪いこと)をしながら参加しました。小学校の教室みたいに孤立するのかなと思っていたのに、隣に座って式典に参加してくれる人たちがいて、いざ始まるとなんの滞りもなく、普通に終わりました。私は勝手に敵対心?みたいなものを持っているから、もちろん居心地は悪かったけど。
式典が終わってから、みんなが雑談している時間になると、「あー!久しぶり、変わってないね!」なんて声をかけてもらったり想定していたよりすべてが普通でした。孤立するでもなく浮くのでもなく、普通でした。私が意識していたよりも、みんなはとくに私のことなんて何も考えていなかったし、当たり前ですがそんなに他人に興味がなかったんですよね。すごくなりたい、見返したいと意識していたのは私だけでした。

成人式から数年経った今思うことは、自分しょうもなかったなあです。
私が気にして、コンプレックスに思っていた○○ちゃん、○○くんよりすごくなりたい、成功したい、そうならなければと思っていた呪縛。
そんなこと、周りはだれも、なにも気にしていなかったのに、自分だけそこに縛られていました。自分で自分自身を縛っていました。私は、別に私のことをなんとも思っていなかった人たちばかりを見て、私自身を見てあげられていなかったんだなと気づきました。

冷静に、今になって考えると、どうしようもないと思っていた環境はそうでもなかっただろうし、自分が卑屈になっていただけで、人のせいにして動けていなかった部分もたくさんあるし、すべての問題が習い事が週6だから起こったことではないなと思います。


そして、記憶があるうちからずっと、自分で自分自身の自己肯定感を下げていたんだなと数日前あるnoteを読んで気づきました。今なら、小学校の頃からなかなか自分すごかったやん、自分なりに頑張ってたやんと思えます。
みんなが遊んでいても、与えられた環境で踏ん張ってた自分すごいし、そんなハードスケジュールこなせる小学生なんて根性ありすぎますよね。ということで、思いっきり過去の自分を認めて、自己肯定感を上げていこうと思います。反省したり、改善する必要あるなと思うこともたくさんあるけどね。
ただ、そもそも小学生が自己肯定感を自分であげるなんて高度なことなかなかできないし、そこは残念ながら当時の環境が大きく左右していました。
なので、この年齢になってもどうしようもないことはあるけど、ある程度は自分の裁量でどんな環境に自分を置くか、どんな人たちと付き合っていくかを選んで、自分を肯定できる環境を探っていきます。今ももう、そんな環境に身を置けていけている気がしています。ぼちぼちと。


ニュースでは華やかに、お祝いムードで晴れやかな姿が映し出されるけれど、成人式がみんなにとってそんな時間じゃなくてもいいと思うし、もちろんキラキラしててもいいと思う。別になんでもなかった日でもいいと思う。
今年の新成人の人たちにも意味のある時間が流れていますように。
(意味がなかったという意味もあるように思います。)

成人式からなんと4年が経ち、やっとこんな風に文章にまとめられました。時間がかかったなあ。それでもまとまった文章にできて、自分をもっと知れてよかったです。読んでお付き合いしてくれた方々、この気持ちを共有してくださってありがとうございます。

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