学ぶことは、自分自身をつくり変えることである
漠然と思っていた。
「道」とついている日本の伝統文化は「習う」もの。
特にわたしが執心している「茶道」は「見取り稽古」と言われ、言葉で習うものですらないと言われている。
だから、漠然と思っていた、「お茶をする」と「学問」は違うのだろうと。
ある日。
記憶にないくらい日常だったある日。
1年365日(今年は366日だけど)、1日24時間、茶人である。
わたしの存在が自然と茶人である。
そうなりたいのだと、気が付いた。
時に思う。親ガチャ。生まれガチャ。就職ガチャ。
代々続くお茶の家(お家元ではなく、その周囲の高弟の家辺り)に生まれたら、何か変わっていたかな?
お茶の家でなくとも、和の文化の世界に生きる家(呉服屋とか、着物を着て暮らすような家)に生まれたら、何か変わっていたかな?
そういう家の人ともっと早くに友達になっていたら、結婚していたら、知り合っていたら、何か変わっていたかな?
ごっつく稼げる稼業について、茶室も茶庭も思う通りに作れるような大人になっていたら、何か変わっていたかな?
このガチャにあたった(失礼な物言いになっているのは、お許しください)人たちと話をしていると「お前にお茶を云々する権利はない。ただ有難くお茶を飲んでおれ」と言われている気がしてならないことが多々ある。
もちろん、知らないこと、わからないことを、素直にそういえないわたしが問題なのだけど、それはさておいても(おいていいのか?)お茶をする気持ちをそがれることが令和5年は本当によくあった。
それだけ、いろいろなお茶をする人に出会ったということなのだろう。
通りすがるだけの人も、定期的に会う人も、いろいろいた。
お茶をする人すべてが、聖人君子でも淑女でもないということが、身に染みた。
そうして、わたしはわたしのお茶を考える。
わたしの得意を考える。
「好きなことに対する、オソロシイほどの好奇心、知識欲」
わたしは今年からお茶を学ぶ。
わたしのお茶を確立するために、お茶とその周りの和の文化について、学問をする。
茶人の知識を学者の学問で裏付けし。
正しくかみ砕いて、広める。
そうして、決して。
他の人(のお茶)を見下さない。
「どんな人でも、どんなありようでも、お茶が好きでいい。お茶をしていい。」
そう言い続けるために、そのための拠り所とするために、今年からお茶を学ぶ。
お茶をするすべての人が、その人なりの方法でお茶を愛し続けていられるように、、、
励みます。
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