
『アディクションと金融資本主義』
日本の社会思想史学者の鈴木直さんの文章は恐ろしく美しい。小説家のように文才がある。その上教養深い。哲学の方はからっきしわからないので全部読み取れているとは言い難いのですが、大変興味深い書籍だった。言いたいことがまとまらないほどに。何度か繰り返すかも。
書籍の概要を載せておこう。
中毒、依存、嗜癖などと訳されるアディクション。スマホ、ギャンブル、ゲーム、飲酒、買いもの。その対象は多岐に渡り、今日のネット社会ほどアクセスが容易になったことは人類史上かつてない。短期報酬を追い求めるアディクション化した金融経済は、実体経済を呑み込みながら資本主義のカジノ化を推進している。
資本主義の歴史、いや、貨幣の歴史から丁寧にさらっている。何度も読み直さないといけないかもしれない。
すでにいま現在、資本にとって開拓できる植民地は消え去った。残るは人間の認知のみ、だ。資本主義は行き詰まった。金融資本主義は認知資本主義とも言われる。人間の認知は限りなく、それゆえに資本は人間の認知をターゲットにして収奪を始めた。それは俗に言う『上からの階級闘争』『資本の側から巧妙に仕掛けられた階級闘争』の形をとる。下流階級にとっては、自分たちのアディクション(依存症)だ。ポルノ依存もこの中に入るだろう。
この数十年、新自由主義による貧困格差と階級固定、新たな封建制、貴族制度が問題となっていた。上流階級は常に下流に対して階級闘争を起こし、下流はアディクションと戦いながら、上流階級に対して唸り声をあげている。お前の持っているものをよこせ、と。万人の、万人に対する闘争。女性に対する戦争。世界内戦。そういったものの話。
私たちが経験した2010年代のフェミニズムは、正確にはフェミニズムではなかった。あれは、やっぱりネオリベラリズムだったんだよ。上からの階級闘争であり、資本の側が仕掛けた階級闘争の罠だ。当時から、なんかおかしい、これって本当にフェミニズムなのだろうか?と思ってたけど。
(資本の側から起こされた階級闘争は)労働市場と社会保障システムの市場化であり、民営化と規制緩和による戦後福祉国家の段階的なスリム化だった。320p
女性たちはこれまで、あまりにも家庭に縛られてきた。女性の潜在的労働力を有効活用し、それぞれのライフスタイルに合った多様な働き方を可能にしようではないか。そのためには、何よりも規制緩和が必要だ。こんな軽やかな説明で、上からの階級闘争は進められていった。そこには、下からの階級闘争につきまっていた暗さはなく、むしろ軽やかな明るさが伴っていた。もちろん女性たちの賃金や雇用形態は相変わらず、男性たちには遠く及ばなかった。それでも、女性の雇用機会が増え、専業主婦であっても扶養控除の範囲内で家計補填や個人消費に回せる収入が増えるなら、それは自由と自立に向かう小さな一歩のように感じられた。321p
その手の認識が浸透するのは、まだまだ数十年先だろうね。たぶん20年後ぐらいかな。そんなもんなんだよ、いつも。
自分の人生を考えさせられた。豊穣さ、とは一体なんなのだろうね?人間の豊かさ。文化の豊かさを食い物にして、資本主義は巨大化してゆく。あの化け物に自分の人生を食い荒らされないためには、どうしたらいいのだろうか。この金融資本主義に呑み込まれた人間の、独特の雰囲気、と言うのがある。独特の口調。独特の思考回路。
あと、鈴木さんはMMT理論も『上からの階級闘争』の例としてあげていて、笑ってしまった。そりゃあそうだろうね。私もずっと観ていたけど。あれには副作用があるんだ。具体的な副作用がどれかは言わない。もちろん、それへの(ごくごく簡単な)リスクヘッジもある。
答え合わせは10年後だ。なんでも、そんなものだ。いま現在は、10年前、20年前の結果に過ぎない。