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与え合いながら生きている。

対話の日。第七回目は、あまやりんさんのこちらのnoteです。

私はサブスクリプションが盛んな現代においても、まだCDを比較的よく買う方だと思う。

私はもうずいぶんCDを買っていないのですが、好きなアーティストのCDが棚にずらっと並ぶとワクワクしていた感覚を思い出しました。サブスクリプションでは味わえないですよね。

歌詞カードを眺めながらとにかく1周最初から最後まで通しで聴くというものだ。

「歌詞を眺める」という部分、とてもわかります。私も歌詞を見ながら曲を聞くことが、とても好きです。
目と耳両方で、その音楽が放つメッセージを、より深く感じられるような気がします。

とりわけコンセプトアルバムの場合は、アーティストが試行錯誤して並べたトラックの順序があり、その世界観を丸ごと味わうのが楽しい。

そうか、順番。これは試行錯誤された上でのものなんですね。今まであまり意識したことなかったです…(アーティストさんに申し訳ない。)
曲と、順番が合わさって、一つのアルバム。次から意識してみようと思います。


なんだか本当におしゃべりしている気持ちになってきました。ここからが本題ですね。「帰ろう」という曲について。

歌詞を読みながら励まされた曲、共感した曲、感動した曲はいままでにたくさんあるけれど、『帰ろう』はそのどれとも少しずつ違った。
心をすっと和らげでくれるような、肩の力を抜いて生きることを丸ごと肯定してくれるような、包み込んでくれるような感覚。それでいて、気を抜くと涙がでそうな不思議な感動ももたらす。感情の渋滞だ。

「感動の渋滞」。
あまやりんさんが心動かされたことが、とても伝わってくる表現だと思いました。
この表現、すごく好きです。

私もこの曲は深みのある曲だな…と思っていたのですが、その「深み」が具体的に何なのか、あまやりんさんの言葉を読んでわかりました。
肩の力をふっと抜いてどこかに帰りたくなるような、そんな曲ですよね。


あまやりんさんが特に好きなフレーズの一つ目。

わたしのいない世界を
上から眺めていても
何一つ 変わらず回るから
少し背中が軽くなった
※藤井風『帰ろう』歌詞より引用

それに対して、こう書かれていましたね。

自分が死んだり、いなくなった世界の妄想が幾度となくよぎった。でもそのたびに思うのは、誰が悲しんでくれるかな?ということだったり、しばらくすれば周りも普通の日常に戻るんだろうな、なんか儚いな、という感情だったり。
彼と同じ“何一つ変わらず回る”世界は見えていたはずなのに、少しも背中は軽くならなかった。

また偶然なのですが、私も先日、ひょんなことから友人と「もし自分が死んでしまったら周りは悲しむのか…?」という話になりまして。

私は「少しは悲しんでほしい」「忘れないでほしい」と話したら、友人は自分はちょっと違うと。

悲しんでほしいとは思わない、覚えてくれていたらいいな、くらいかな、と言っていて。
その気持ちが、わかったようで、ちゃんとはわからなかったのです。

思いが強すぎると理想より上手くいっていない自分を引き算で見てがっかりしてしまう。
そんなに肩ひじ張って生きなくても大丈夫だ。そのままの自分で生きていけば大丈夫だ。そういうメッセージにも思えた。

そうか、「誰かに悲しんでほしい」と思った私は、知らずしらず肩ひじ張って生きていたのかもしれない。
その友人はきっと、力を抜いて、今生きていることを心から楽しんでいるのかもな…と、あまやりんさんの解釈から理解しました。


そしてもう一つの好きなフレーズ。

与えられるものこそ 与えられたもの
ありがとう、って胸をはろう
※藤井風『帰ろう』歌詞より引用

私もこの部分は無性に惹かれて、耳に残って。
以前自分のnoteにも書きました。

ただ、惹かれたものの「どういう意味なんだろう」と考えてしまって。そのときは、「自分が誰かに何かを与えられるということは、まわりまわって自分にも与えられているということだよ」と解釈したのです。


あまやりんさんは、こう書かれていました。

誰かに「優しいね」とか「凄いね」とか言われた時、そんなことないよとつい謙遜してしまうことはよくあった。
自分が仮に誰かに与えられている影響のエトセトラがあるとしたら、それは私も人から与えられたから出来ることなんだ。
自分が褒められうる何かを持っているのは、それを与えてくれた誰かがいるからであって、自分が褒められたらその分だけ周りの人を誇ることが出来たら、きっと謙遜するよりずっといい。

視界がひらけた感じがしました。

「褒められうる何かを持っているのは、それを与えてくれた誰かがいるから」。本当にそうですよね。与えてもらったから、それを与えられる。

最近よく考えている「贈与」の概念だと思いました。贈与は、返礼としてしか始まらないそうなんです。(よかったらこちら

解釈は人それぞれだと思いますが、私はあまやりんさんの解釈にとても共感し、納得しました。最近考えていたことともピンとつながったから、より腹落ちしたのかもしれません。ありがとうございます。

歌詞にもあるように、ありがとうと胸を張っていたい。

私もほめられると、つい謙遜してしまうことが多いです。

でも確かに、ほめられる自分がいるとしたら、それはまわりの人たちのおかげで。「いえいえ…」と謙遜することは、まわりの人たちの存在をなかったことにしてしまう、ということにもつながるのかなと。

「ありがとう」は自分にいろいろなものを与えてくれた、まわりの人たちへの言葉。つまり「与えてもらっていた」ということに気づかない限りは、感謝はできない。時間差の感謝。

そう考えると、そもそも「気づく」ということがすごいことですね。

気づける人でありたいですし、気づいたなら、感謝して、胸を張りたい。


あまやりんさん、対話させていただきありがとうございました。一つの曲について、お茶でも飲みながら同じ場で語り合っているような気持ちになりました。そして、新しい気づきを得られました。

ちょっと、自分がしゃべりすぎてしまった感があります。あまやりんさんにとって何か得るものがあるかどうか…、、難しい。
感じたことなど、また教えていただけるとうれしいです。



「対話の日」、もし興味がある方は、下記のnoteのコメントに記事のリンクを貼ってください。ぜひお待ちしています。




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