磨くのは、文章も、人間性も。
文章にはその人の人間性が表れるというけれども、私の文章には、私の人間性が表れているのだろうか。わりと客観的に自分のことを見ている時間が多いのに、この部分はどうもよくわからない。文章を通して、私という人間はどう見えるんだろうって。
言葉だけが先行していないだろうか、という点がときどき怖かったりする。
もちろん嘘は書いていないし、感じたことや思ったことをそのまま書いているつもりで。でも「書いているだけ」になっていないだろうか。書いたことにある意味、責任をもっているのだろうか。
そのときどきで思うことは違うし、いったん書いたことと考えが変わって、別の考えを書くということはある。それは自然なこと。変わることを否定して書くことをためらうのはもったいない。
でも、言葉を発したからには少しの責任をもちたいなとも思う。言うだけなら簡単。でも言うだけで終わりたくない。なんだろうな、「その言葉を発することが似合う人になりたい」という感じかな。
たとえば、内容としては同じことが書いてあるとしても、Aさんが言うのと、Bさんが言うのとでは、印象や重みが違うと感じられることがある。
Aさんの言葉の方がしっくりくるなと感じたとしたら、それはAさんが、その言葉が似合う人になっているから。その言葉が似合うだけの人間性が磨かれているから、とも言える。
対してBさんの言葉に対して「言ってることはわかるけど、なんか受け止めづらい」と感じたとしたら、その言葉を扱うまでにBさんはまだ成長できていないのかもしれない。
こうでないとこの言葉を使ってはいけないなんて決まりはもちろんない。書くことで、自分自身が引き上げられることもあるだろう。かっこいいことも、きれいごとも、正義も、何だって書いていい。
でも、その言葉を発するだけの人間になっているのか、たとえば「正解はあるのではなく、つくる」と言っている自分が、その言葉を発した後、本当に正解をつくることに向き合おうとしているのか。少しだけ立ち止まって、問う。
言葉と人間はセットだ。
書くことで意識せずとも人間性が磨かれていく面もあると思うけれども、ある意味それに甘えすぎずに、人間的な部分も一緒に成長できているのか、ふりかえりつつ進みたいなと思う。
その「人間性」という部分は、文章においては「深み」とか「重み」といった形でにじみでてくるのだろう。
それはきっと「伝わる」ための要素になる。
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