自分らしさと、少しの配慮と。
対話の日。第五回目は、あずきさんのこちらのnoteです。
【文章によって相手を傷つけてしまう】
これは本当に怖いと思います。
自分が何気なく使った言葉が、知らぬ間に相手を傷つける。
人を傷つけるつもりなんてないのに、気づけば誰かが傷ついている。
とても、わかります。私も同じように悩んだことがありました。
文章は一度書くと消さない限りは残り続け、良くも悪くも誰かの目にふれる。
自分が発した言葉が、どこかで、誰かを傷つけていたら。そう思うと表現することが怖くなるのは、きっとあずきさんだけではないと思います。
そうして辿り着いた結論が「私の言葉、表現の何かしらが結果的に相手を傷つけてしまったのではないか?」というものでした。
親しくしていた方が、自分の言葉で傷ついたとしたら…と思うと、とても苦しい気持ちになりますよね。
対面のコミュニケーションであれば、相手の表情や態度などで気づけるけれど、テキストだとそれが難しい。果たして自分が原因なのかどうか「わからない」からこそ、苦しいのだと思いました。
「解釈の一方通行」
書き手が多様なように、読み手も多様。
書き終わって公開して、読み手の目にふれた瞬間から、読み手がどう受け取るのかは自由。
だからこそ文章は面白い。
私も、そう思いました。
読み手によって受け取り方や解釈は異なる。一人として、同じ受け取り方をする人はいない。むしろ、多様な受け取り方ができるような文章の方が、深みや味わいがあるような気がしました。
「傷つけたくない。嫌われたくない。」
そう思えば思うほど、自分を表現するのが怖くなる。
あずきさんの文章を読んで、2つの問いが浮かんできました。
まず「文章を書くことにおいて、誰も傷つけないことはできるのか」、そして、傷つけたくないと強く思うなら、「誰も傷つけない文章を書くことを目指すべきなのか」。
1つ目の「誰も傷つけないことはできるのか」については、できない、と思いました。
どんなに自分が配慮しても、受け取り方が多様である以上、「絶対に誰も傷つけない」なんてことはない。だから「傷つけてしまうかも」という怖れを適度に持つことは、大切なことなんじゃないかと。
どんなに言葉を選んでも、どんなに表現を工夫しても、どんなに心を砕いても、その不安が消えることはなくて。
すごくわかります。。ただこの「怖れ」があるからこそ、言葉や表現選びといった配慮につながる。きっとその配慮は、文章の至るところににじみ出ると思います。
2つ目の「誰も傷つけない文章を書くことを目指すべきなのか」については、「傷つけない」ことを目的にすると、あずきさんが書いていらっしゃるようにのびのびした表現ができなくなってしまうよなぁ…と。
もちろん「傷つける」ことを目的とした文章(コメント等も含む)は誹謗中傷と呼ばれるように、あってはならないと思います。でも、傷つけることを目的としていないのなら。
そうだ、これは私の人生なんだ。
私の人生だから、自分の思うように表現しよう。
自分には、自分にしかない良さがある。
そう信じて、これからも自分だけの言葉を紡いでいきたい。
顔の見えない誰かを怖れて縮こまってしまうよりも、心からの表現ができたほうがきっといい。
そして、その言葉が誰かの心に寄り添えるなら。
のびやかに表現された言葉だからこそ、誰かの心に届くのですよね。
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「遠慮はするな 配慮はしろ」
この言葉は、私が書くときによりどころにしている言葉です。
表現することそのものに遠慮はいらない。だけれども、いろんな人が読むことが想定される以上、配慮はする。
配慮とは「手間」だと考えています。わーっと書いてそのまま公開するのではなく、少しだけ多様な読み手の立場に立ってみること、その上で、言葉や表現選びを見つめ直してみること。
その「手間」が、文章上の「優しさ」として表れるんじゃないかな…と思っています。
あずきさん、対話させていただきありがとうございました。
恐れながら、あずきさんと考えていることや感じていることが近いように感じて、「わかるわかる…!」と心の中で何度も思いました。こういった迷いや葛藤は、言葉を扱う上で大切なことだなと、改めて感じました。
そしてここで紹介するか迷ったのですが、私も前に「誰かを傷つけるかも」ということについて葛藤したことがありました。
文中で紹介している方々の記事もとてもよいので、もしよければぜひ読んでみてください。
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