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「徳を積む」ということ。

誰かに何かをお願いした際、自分が期待した以上のものが返ってくることがときどきある。そういうとき「感動する」という感覚に出会う。決して相手にとって得になるわけではないのに、ここまでやってくれたんだ、と。かけてくれた労力と時間に、ただただ頭が下がり、尊敬の気持ちを抱く。

そういうことが自然とできる人になりたいなと思う。

もちろん時間と労力にも限りがあるからその範囲内にはなる。でも最低限これくらいやっておけば及第点だろうではなく、どうすればその人の力になれるのか、困っている状態を助けられるのか。ただそれだけをまっすぐに考えて、自分にできることをやる。

「徳を積む」ということとも近いのかな。

「徳を積む」=「善い行いを積み重ねること」。これは相手のあるなし、誰かが見ている見てないは関係なく。損得勘定抜きにして、たとえ自分が損をした(ように思えた)としても、善い行いをできるかどうか。

ちょっと話は逸れるかもしれないけど、すごーく昔にお付き合いしていた人に、いきなりLINEで別れを告げられたことがあり。びっくりして、悲しいし、何だよって思った。当然返信をする気も起きず、しばらく放置していた。

それを友達に話すと「返信してあげれば。徳を積むと思ってさ」と言われたことを、とてもよく覚えている。そうか。徳を積む。確かに、事情はよくわからなかったが、何かがあったのかもしれない。事前に言い出したかったけど言えずに、LINEに至ったのかもしれない。

怒りや悲しみの表明として返信しない、もしくは責める言葉を伝えるという選択肢もあったけど、それはやめようと友達の言葉で思えた。「今までありがとう」という言葉を返すことができた。それにより嫌な感じが自分の中に残らず、とてもすっきりして前に進むことができた。

結果私は損をしたのかもしれない。
よくわからないけど一方的にフラれたことを認めた=「負け」の状態になったのかもしれない。

まあそれでもいっかと、これで一つ徳を積むことができたのなら、損も負けも大したことじゃないと思えた。相手を傷つけてしまった、もしくは返信せずにもやもやが残った、よりもずっとよかった。(これはあくまで私の考えなので、同じシチュエーションで他の人に当てはまるかはわかりません。)

もちろん「徳を積む」ことが「自己犠牲」になってしまうとしんどいので、線引きは慎重であるべきだと思う。積極的に損をしようとは思っていない。でも得か損かではなく、何が「善い」のか。自分にとって、相手にとって、誰かにとって、誰かが見ている、見ていないに関わらず、「善い」ことは何なのか。そういう視点で日々の行動を選択していきたいな。

徳を積める人になろう。




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