「覚えてる」もギフト
先日、住居の更新手続きを済ませた。4年前から住み始めたこの家は、駅から多少離れているものの、家賃にしては広くきれいで、共同ごみ置き場もあり、職場もスーパーも近く、とても気に入っている。
気分転換に引っ越そうか…とも一瞬考えて探してみたが、これほどの条件の物件はなかなか見つからず、かつ4年前の引っ越しのめんどうさを思い出すと、更新を選択するのは自然なことだった。
手続きをしに不動産屋さんへ向かう。大手ではなく、街の小さな不動産屋さん。働いてる方のアットホームな感じが安心する。更新にはいつもオーナーさんも立ち会う。高齢ご夫婦のオーナーさん。コロナのこともあり今回は同席されないかと思ったが、不動産屋に着くとすでにお二人ともいらっしゃった。
気さくであたたかい雰囲気のお二人。特に奥様の方は、手続きの合間にいろいろと話しかけてくれる。コロナのこと、仕事のこと、雪のこと。束の間のたわいもない会話が、とても居心地がいい。
「ご実家は○○でしたわよね。よく帰られるの?」
不意に実家の話が出た。私は少々びっくりした。だって2年に1度、しかも15分程度しか会ってないのだ。たぶん2年前か初回の契約の時に、実家のことを話したのだろう。でも私も覚えてないくらいだ、きっとささいな会話の中で出た話題。それを数年経った今、さらりと会話に出せることがとてもすごいことで、素敵なことだと感じて。
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「覚えてる」というのは、相手の存在を肯定する行為だと思う。そこにいるあなたを認識していますよ、というメッセージ。
覚えている人は、そういうメッセージを発したいと思って覚えているわけじゃない。けれど覚えてもらっている側には、それが届いている。決して近しい関係性だけじゃなく、2年に1度しか会わない関係性の中でも、メッセージを届け合うことができる。
私はちゃんと覚えているだろうか。あの人が言ってた話、あの人の誕生日、あの人が好きなこと、あの人が苦手なこと。会話の中で「次に何を言うか」とどうしても自分に意識が向きがちな瞬間を見つける。そうやって聞いた話の中は、ほとんど覚えていないのだろう。つまり、心からの関心を相手に向けることができていない。
オーナーの奥様のように、そこにいる「人」に関心を寄せて、会話ができる人でありたい。そうしていつか誰かに「覚えていたよ」というメッセージを意図せず届けることができたなら、それは小さなギフトになり得るのかもしれない。
それまでは更新したこの家で、また2年お世話になるこの城で、日々の小さな幸せを書き重ねていくことにする。