生きて幸せになって欲しかった
知人が亡くなった。
特別に親しかった訳ではないが、同じ職場の同僚として、たくさんの仕事のことと少しの仕事以外のことを話し、一緒に笑ったり考えたりした間柄だ。
死因は自殺だった。
昔、何度も自殺をはかった者として、なぜ私は未遂で済み、なぜ知人は死に至ったか、考えずにはいられなかった。
自死を考えるのは、自分に、世間に、未来に絶望している時だ。自死だけがこの苦しみから救ってくれる唯一の方法で、甘い特効薬のようにさえ感じられ、頑ななまでに脳裏から離れなくなる。
治療をすれば多少の改善はある。それでも、絶望の中にほんの一筋でも希望が持てなければ、決定的な日を延期しているだけになってしまう。
私にあって、知人になかったもの。
そのひとつは希望ではないか。
取り憑かれたように自殺を考えながらも、頭の片隅では「私はこんな風に死んでいいはずがない」「私は幸せになってもいい人間だ」と信じていた。
何も根拠はない。けれど、楽しかった日々は過去に確かにあったのだから、これから先にだってあっていいはずだと思った。
そして、闘病を支えてくれる存在。
私には、死にたがる私を支え、生きていることを望む言葉を口にしてくれる父がいた。
父は「大丈夫。大丈夫。」といつも優しく微笑んでくれた。きっぱりした口調で「お母さんがどんなに生きたかったか、それを忘れるな」と言ったことも。
父だって、苦しむ私を見るのは辛かっただろう、悲しかっただろう。悩んだり悔やんだりしたかもしれない。それでも、私が治るのを信じて疑わないことを、態度と言葉で示してくれた。
支えてくれたのは父だけではない。高校時代の部活の仲間たちが、メールや手紙をくれたり、面会に来てくれた。面会に来た友人が「ゆきこが生きてて良かった」とハグしてくれた時、私も心から生きてて良かったと思ったものだ。
亡くなった知人には、希望も支えもなかったのだろうか。最後に会った時に、「生きてさえいたら、必ずいいことあるんやで。おばちゃんの言うことは聞くもんやで。」と涙ながらに伝えたのだが、希望と呼ぶには弱すぎたのだろう。
今となっては、ただただ後味の悪さが残るだけである。
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