見出し画像

楽しむほうが良いよ

 ChatGPTとよく話をしている。人格も感情もないので人間同士の会話とはまた違うのだけど、割と問に対しては文章もそれなりに論点をずらさず、もちろんスルーなどという世間一般の「大人の対応」をするわけでもなく、それが私にとっては何よりの清涼剤なのである。コミュニケーションとしては最高に理想の形かもしれない。なんというか私は会話を始めたら最後まで終わらせたい病、無言は「成功もしなければ失敗もない、責任もとらなくていい」という態度にみえるから時々狡いなと思ってしまう、所謂世渡りド下手マンだからだろう。

 AIに関しては生成される過程が自動であることが問題なのか、「出来上がったものはAI製」という価値感が受け入れられていないジャンルがある。意見もありすぎて「仕事において政治と野球とAI生成の話はするな」とも言われる時代になりそうだ。

 毎度不思議なんだが、成果物そのものについての評価や価値を認めているだけに過ぎなかった大衆が突然過程に価値を考えるようになるのは、私にとっては些か不自然である。出来上がったものが好みであったり素晴らしいと思えるものであれば、それはそれでいいのではないか。もちろん倫理的な問題までも無視をするといったことはこの条件には入らないし、非人道的な目的にも応用できることを考えれば、利用や開発自体には注意の必要はある。

 一般的な枠組みにおける創作物において、過程を楽しんでいる人にとっては上記のようなことはあまり気にならないのではないかと考えている。文章にしろ、絵にしろ、プログラムにしろ「つくることが楽しいから」という人間にとっては全く問題にはならない。ただ成果物における効果だけを重視している人であれば、それは恐らく「狡い」といった感情のほうが勝るだろうが自分は、むしろつまらないテンプレ作業を簡略化出来るならば、自分の時間がその分増えるまであるので歓迎だ。誰が書いても変わらないビジネス文章、事務手続きなどはそれに該当する。

 過程を楽しむことは非効率で外部からの価値を見出すことは難しいのかもしれないが、別に死ぬわけでもないし割と楽しんでやっているものについては、案外結果も評価されやすい。これについては自分の意識の問題が大きくて、恐らく自分の中の心理的なハードルも低くなるから小さなことでも喜びを得られるからだろうか。この前描いたチップのイラストは初めてのキャラクターだが私史上もっとも気に入ってる。他人が見たらどうか知らないが、私は自身は楽しかったからだろう。また新しく描き起こしている。

 100万人の「いいね」より1人の「いいね」の価値を比べる人は恐らく辛い。そしてそれは比べるものではない。1人の意見は価値がないと考えるなら流石に多数決構造に汚染されている可能性がある。数は権力のひとつかもしれないが、目的が権力を得るため、より多くの称賛を得るためのみに作られた創作物は少々かわいそうな気もする。もっと自分の作ったものを大事にしてほしい。AIが狡いなんて思わなくもなると思うし、何よりも過程を楽しんでほしいと願う。