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私集

人としてあってはならぬ出来事に直面し、筋肉痛になる程度には瞬間的に怒りを覚えた模様、そして本日はバックアップ電源が作動して賢者モードに移行中。オチもない文章群を書き連ねるに至る。

凡人の冒険

度々「自分は凡人、極まっているなあ」と思い返す。人よりも10年ほど何かに気がつくことが遅いような気がする。10年では凡人ではなく、大分のんびりであろう。長寿の種族であればそれでもいいのかもしれないが残念ながら只の人だ。現世ではどの程度まで、何を考えて、どこまでみえるようになるのだろうか。

明日の存在すら確定できないことを不安と呼ぶこともある。一方では無謀な未知なる冒険でもあり、本来は未知の楽しさもあるはずなのだが、どういうわけか私含めて「同じ明日が来る」ことを前提に多数が動いている。いつの間にかそれが「いつも同じ毎日」にすり替わり、退屈な日々という絶望などを時々耳にすることになるわけだ。

朝霧と異世界

朝の出社、他人より少し早めに到着すると必ずと言っていいほど、建物の陰でひとり煙草を燻らす人がいる。この人はぼんやりと、そして黙々と仕事をして全く同僚と会話を必要としない(私もそうだが)タイプだ。その人はいつもより更に、放心したような表情でゆっくりと静かな朝の煙草を楽しんでいるものだから、そこだけ時間の進み方が違うようにもみえて、その情景はいつも良いものだなと思って通り過ぎる。ちなみにこの人が社内で一番恐れている人間は私とのことであるが、私は何もしていない。無罪を主張しておいたが、こういうタイプはだいたい有罪であるパターンを良くみる。なので多分有罪。


心、そこに在らずとも

微妙な上司に「他人に全く興味がない」と指摘されたことがある。社内ではどうやらそう見えるのかとひどく感心した。私は基本的には人に興味があるほうだ。ただし、明るく社交的な人よりも興味の条件がかなり狭い(かもしれない)。ゴシップも合コンも、芸能人の話題も表情が一ミリも動きやしないものだから、そういったことを雑談とする人にとって私はまさしく「他人に全く興味がない」ようにみえるだろう。ほんとうに興味がないのだから、実に正しい。私を解説するフレーズとして最近のお気に入りに「人たらしの人嫌い」というものがあるが(これを指摘されたときの清々しさといったらなかった)こういった側面からみても、よく理解できる指摘だった。

書くこと/好き/それでいい

文章を書くこと自体が好きだ。相手を必要とせず、考えたことを出力しても変な顔をされることもない、自由な場所のひとつでもあるからだろうか、根暗な私は小学生の頃、大学ノートに何冊も小説めいたものを大量に書いていた。学級文集に掲載をするための文字制限自由な作文では、人の10倍の量を書いた記憶がある。お題はシャガールの絵「私と村」から想像したことを物語にせよ、といった内容だった。内向的なオタク小学生だった私には只の娯楽でしかなかったが周りは若干その文量に引いていたと思う。

話は長いほうが良いものかといえば、当然そうとは限らない。ただ、考えていることを丁寧に表現しようとしたらきっとそれなりの長さにはなるだろう。しかしながら記憶によると、自分の作品よりも400字をやっと埋めたような同級生の苦し紛れな作品のほうがなんだか面白かった。その理由として短歌や俳句のような異世界感が内包された慎ましさを、そこに感じていたからかもしれない。あの世界の好きな理由のひとつに相手が構築する世界を融合できる余裕と優しさがあるが、そんなところだろう。ときには曖昧という言葉でも表現されることもあるけれど、それも私は結構楽しく読んでしまう。今になって「パーフェクトな文章ばかりを狙う必要があるのか」という意味を飲み込めたのだろうか、そんな回想が一枚、記憶に差し込まれた。それでいい、そんな心持ちで文章に向き合えるようになった今年だ。

Marc Chagall. I and the Village. 1911


友人とジャンクワード

友人と知人の意味を調べてしまうくらいには、人との関わりに自信がないオタクなのだが、最近「友人」と表現されて「全俺が泣いた」という古の表現を使ってしまう程に嬉しかった。そもそも私は古のインターネッツ人類であり、経験だけが古代人すぎて同年代においては相互理解は大分厳しい状況である。「www」とか言いたいし、「もしもしポリスメン?」とか言いたいし、甘々なライトでスタイリッシュなココアだけではなくて、ビターでドロドロとした全く甘くない溶けたチョコのような、アンダーグラウンドでトロめきあう、あのジャンクな言語もとても愛しているのだ。その言語や文化を解する人に、友人と表現されては「全俺が泣かない」わけにはいかないのである。ありがとう(小声)。