これからは、自考力の時代⇒「少年 よ、大志を抱け」

では、なぜ、勉強や仕事が強制課題になってしま ったのか?

国家が登場し、私有権が成立すると、社会の物財 はすべて私有の対象となり、私権(地位や財産の占 有権)を獲得しなければ生きてゆけなくなった。そ こでは、誰もが私権の獲得に収束する。その結 果、この社会は私権追求の圧力で満たされるが、 この私権圧力は否も応もない(それを獲得しなけれ ば生きてゆけない) 絶対的な強制圧力である。

しかし、本能や共認機能を源泉とする本源主体に とって、私権社会は全面的に不整合な世界であ り、本源主体を私権圧力に整合させることは、原 理的に不可能である。従って、私権圧力に対応す るためには、どこかで出来合いの私権観念を導入 し、折り合いをつけて(=私権圧力に部分的に整合 させて) 生きてゆくしかない。そこで、折り合いを つけるべく、良く聞くのが「がんばる」という言葉 である。

しかし、それは諦めと妥協の私権観念であり、そ
れでは全身全霊をかけて何かを自考し続けることな ど、出来ない。しょせん仕方なく勉強(仕事)して いるだけなので、本来の力の半分以下の力しか出 せない。あるいは、部分的に整合させているだけ なので、すぐに崩れて「がんばる」と言いながら頑 張れない。

ところが、実は、1970年に豊かさが実現されて以 降、私権圧力はどんどん低下してきている。今 や、自然志向や健康志向や節約志向が(つまりは脱 市場・脱私権の潮流が)最先端の潮流となり、私権 圧力はとことん衰弱してしまっている。つまり、 すでに「がんばる」と言っても何の為に頑張ってい るのか訳が分からなくなっているのが現状である。

ならば、そんなものは捨てれば良い。ここまで私 権圧力が衰弱してしまったのなら、もはや諦めと 妥協の私権観念など無用の長物である。私権観念 を捨てれば、人類本来の本源主体が姿を現す。そ の本源主体に立脚して、秩序崩壊の危機に瀕して いるこの社会を対象化すれば、誰の心にも『社会を 守る』⇒その為には『世界を掴む』という志が芽生 えてくる。

そして、ひとたび『世界(の構造)を掴んでやる』と いう大志が芽生えれば、教科書は認識の宝庫に変 わろ 教科書だけでけない 全ての情報が学びと自考の対象となる。

例えば、勉強するにも、「本能と共認機能の表出で ある言語というものの真髄を掴んでやろう」「世界 を数量的に整合させる数学というものの本質を掴ん でやろう」「歴史の背景にある必然性を掴んでやろ う」「自然現象の背後にある法則を掴んでやろう」等 の目的意識 (志)をもって各教科に挑戦すれば、未 知収束⇒自考回路が作動して、自考力が急速に上 昇してゆく。

本来、アクティブラーニングなどの自考型教育が 目指すものは、それである。それは、明治以来の 「教える→分かったつもり → 自考停止」の悪循環を 断ち切り、新しい自考力の時代に対応する最先端の試みである。

その目的は自考力の形成にあるが、未知なる世界 への収束と自考の意志は、(先に見た『大志』がそ うであるように)人々の期待に同化する中で形成される。その点、自考という言葉は、共認とは逆の 自閉的なイメージを与えるが、事実は逆で、自考 の原動力となるのは人々への同化と応合、つまり 共認充足そのものである。

また、自考型授業というと、「それなら自分でや る」という生徒がいるが、実は一人では自考は続か ない。なぜなら、上述したように、サル・人類の 未知収束⇒自考回路は、共認充足や自考充足と一 体になって作動するものだからである。だから、 みんなとの課題共認や自考共認、あるいは『社会を 守る』⇒『世界を掴む』という目的共認、更にはみ んなからの「気付き」の発信などの刺激が、自考し 続ける上で不可欠の条件となる。

それに、みんなと一緒に自考するのは楽しい。そ こには、人類本来の未知収束⇒ 自考充足の世界が ある。更に、その中で『社会を守る』⇒『世界を掴 む』という志が芽生えれば、全身全霊を傾けて自考 し続けてゆく地平が拓(ひら)かれる。つまり、 100%の力を出し切ることができるようになる。

新しい世界に向かって、共に自考力を磨いていこ う。

いいなと思ったら応援しよう!