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「サプライズ演出」とは、つまり偽善である。

結婚式の嫌な想い出

ふと、結婚式のことを思い出した。

もう3年も前のことだ。

ゴッドファーザーに憧れていたことで実現したガーデンウェディング。

最高の天気のもと、最高の友人たちに囲まれて、飲み食べ踊って過ごしたその1日は、それはそれは楽しかった。

披露宴は、会社の人や親戚も一切呼ばないカジュアルなパーティー形式のものだったが、唯一私の両親と妹だけが「家族枠」として参加していた。
(彼の両親はカナダ在住で色々あり参列できず)

結婚式と言えば親と子の「感動」のシーンを連想する人も多いだろう。

母親からのベールダウン

父親とのバージンロード

両親への手紙

最近では両親からの最後のお世話として、新郎新婦にケーキを食べさせる「ラストバイト」なんて演出まであるほど、結婚式には親子の感動演出が欠かせないものになっている。

しかし私はそのどれも自らの結婚式に取り入れなかった。

人様の結婚式に行けば、それなりに感動もする。親子の絆に涙することもある。

だけれども私は、自分がそれをやることには、とてつもない抵抗を感じていた。

私は家族が好きである。
だが、同じくらい嫌いである。

特に強烈な個性を持っている父のことは、思春期には夢で殺害することがあったほど憎みもし、一方で今の自分があるのは父のおかげだと思っているフシもあり、その感情は未だに混乱し一向に定まらない。
ある側面では誰よりも尊敬し、またある側面では誰よりも軽蔑している。

いっそ、ただひたすらに距離を置いてしまいたいと逃げ出したい気持ちになるのが本音だけれども、親子の関係というのはそう簡単ではない。
その呪縛は未だに決まって年に数度ほど、私を暗い気持ちにさせる。

話を結婚式に戻す。
そんな気持ちで、恣意的に「結婚式の感動演出」を一切盛り込まなかった私に、当日驚きの出来事が起こった。

父からの「感動演出」のサプライズである。

司会者の突然の「さぁ、ここで実は新婦のYさんに内緒でお父様からのお手紙をお預かりしております」の言葉に私は本気で唖然とした。

そして同時に「やられた」と思った。
無論、良い意味ではない。

父の性格を考えると予想はできたことだった。それを先回りして阻止できなかった自分の甘さを瞬時に悔いた。

父は満面の笑みで立ち上がり「これはYが産まれたその日に書いた手紙です。私からは感極まってしまってとても読めそうにないので、司会の方に代読して頂きます」と告げた。

「子供が産まれた日の父親の手紙」

そして

「嫁ぐ娘へのサプライズ」

というパワーワード。ゲストが大好きな感動要素たっぷりな演出である。
テレビの企画だったら大成功のお涙頂戴モノだ。

ゲスト全員が真剣な眼差しで、司会者に目を向ける。司会者は初めの5行ほどを読み上げた段階で、声を詰まらせた。
感動して泣いているのである。

確かにそれは、とても「良い手紙」だった。
なんせ、小説家を目指していたこともあるくらい昔から国語力がズバ抜けている父の書く文章である。誰がどう聞いても素晴らしいものだった。話の導入から、展開のもっていきかた、抑揚…編集職の私が聞いても何の添削もいらない。100点満点の文章である。

しかし私の心は寒々しかった。

これを言うと何て心の冷たい人間なんだと侮辱されそうで、結婚式後は誰にも本音を言えなかったが、その時の私の正直な気持ちは「あー最高に嫌な気持ち」ただそれだけである。
唯一ポジティブに考えていたのは「さすがお父さん、文章上手いな」それくらい。

そして同時に、今まで広告の仕事をすることが多かった私はここがカメラマンにとって最高の撮れ高になる瞬間だということも理解していた。

ポーズとして、父と司会者の方をジッと見つめてはいたので実際に見てはいないが、会場中のカメラやビデオカメラが私の顔をアップで狙っていることは容易に想像がついた。

そして白いハンカチで涙を拭う花嫁のシーンが感動のBGMと共に編集された式後ビデオの一シーンまでもを、鮮明に想像できた。

生憎泣く予定がなかった私は、美しい刺繍が施された花嫁ハンカチなんて持っていなかったし、そもそもこんな感情だったため、微塵も涙は出なかった。

ただ、会場中から「泣け泣け」「花嫁がここで泣くと盛り上がる」という無言のプレッシャーがあるような妄想に襲われて、それこそ会場を飛び出して泣き出したいような気持ちにはなっていた。

司会者が声を震わせながら長い手紙を読み上げるにつれ、会場からすすり泣く音が聞こえてくる。
心優しい私の友人たちが涙を浮かべている。
花嫁がこんな気持ちでここにいることが、失礼に思えてくるようだった。

なぜ私は「勝手にサプライズをされた被害者」なのに、こんな申し訳無い気持ちにならないといけないのだろう。

泣けなくてごめんなさい

撮れ高減らしてごめんなさい

場を盛り下げてごめんなさい

全くどうして馬鹿らしい。
そう、この感情は憤りだった。

私が自分でお金を払って、自分で企画した結婚式である。台無しになんてされたくない。

読み上げられた手紙は、父から私にその場で手渡された。私は一言「ありがとう」と告げ、薄ら笑いを浮かべて席に戻った。

「あれ?反応薄いな」と父は感じているだろうなと思いながら。

私がこんなに憤りを感じたのは、父に対して複雑な感情を抱いているからという理由だけではない。
この行動に、とてつもない偽善を感じたからである。父は昔から人前に出て行くのが好きだ。
それはそれで勿論すごい才能だと尊敬はしている。だが、いくらいいスピーチをしていても父の気持ちの根底にあるのは「自分が敬われたい」という偽善である。
これは父に直接ぶつけたことはないし、母や妹が気付いているかは定かではない。
が、私は確信している。

結局父は「尊敬されるリーダー」になりたいのである。
「すごいね」「さすがだね」「感動した」そう"一般人"に言われてチヤホヤされたいのだ。
無論、有言実行ではあるため、悪ではない。選挙に当選して議員になったときは、公約通りに身を粉にして町民のために奮闘していたし、仕事でも必ず成果を上げるタイプである。

だが、モチベーションとしては極めて偽善的だ。

私が結婚式の手紙の一幕が始まった瞬間に「やられた」と感じたのはそういう理由からである。

ああ、私はまた父の父による父劇場に巻き込まれてしまった。

私の大切な、私のための結婚式だったのに。

かなり酷い言い方をすると、私はダシにされたのだ。だからこそ(そんな恐れもなかったが)私は絶対に泣いてはいけなかった。

涙を一粒でも零したらその瞬間に、私は父の舞台の最高のクライマックスを自ら作り上げてしまう。

「出産の日に娘に手紙を書く父」

皆に、素敵ですねと言われるだろう。

「その手紙を娘が嫁ぐ日に渡す父」

なんて感動的!と賞賛されるだろう。

父はこれを美談として、誰かに語りたいのだと思う。いや、語らずともゲストの数人から「すごく感動しました」と声を掛けられたそうなので、その自尊心は大いに満たされたことだろう。

完全なる私の敗北である。

さぁ、ここまで読んで頂いてどう感じるだろうか。

人によっては「何て穿った考え方なんだ。お父さんの愛情を無下にして」と憤るかもしれない。

ちなみに、私は父の愛を疑っているわけではない。手紙に書いてある内容は父の気持ちそのものであると思う。

冷たい人ではないし、私も出産を経た今、子供を持つことの感動は身にしみて感じている。

でもそれは、私に直接そっと伝えても良かったことだ。何も結婚式の場でゲストを集めて披露する必要はなかった。

さらにいうなら、本当は私だって感動したい。

感動して涙で顔を、グシャグシャにしながら「今まで育ててくれてありがとう」なんておきまりのフレーズが言いたい。

ゲストもカメラマンもそれがハッピーなことなんてわかっている。

だが、過去の色んな経験と家族にしかわからない微妙なニュアンスを感じ取った私が持った正直な気持ちがこれなのである。

フラッシュモブのプロポーズ事件

私のこの感情は数年前に話題になった、フラッシュモブでのプロポーズ事件に酷似している。

良かれと思って、彼氏がフラッシュモブを仕込み、街中で彼女にプロポーズをする。

彼女の方はその演出が恥ずかしかったのか、嫌悪感を持ちプロポーズは惨敗。

ネットニュースで盛り上がり「わかる、私もされたら嫌だ」なんて彼女への共感の声や「せっかくプロポーズしたのにかわいそう」という彼氏への同情の声まで色んな意見が飛び交っていた。

このフラッシュモブのシーンは、映画なら最高の見せ場である。
ディズニーなら小鳥たちも歌い出すだろう。

周りに偶然居合わせた人たちにも、幸せのおすそ分けができるかもしれない。

でも私には彼女の気持ちが痛いほどよくわかる。
(ちなみに私はフラッシュモブは嫌いではない)

この彼氏は一体彼女の何を見ていたのだろう。
プロポーズしたくらいなのだから、一生を添い遂げたいと思ったほどの人なのである。

なのに、彼女が嫌な気持ちになることを察することができなかったなんて、とても信じられない。

想像力が欠如しすぎているというか、やはり自己中心的で自分に酔っているとしか言いようがない。

もしかすると彼女は、フラッシュモブという行為も嫌だったかもしれないが、そういう偽善的な男と一生を共にすることに不安を覚えたのではないだろうかと思うほどだ。

サプライズが苦手な旦那との結婚

私は父みたいな自己顕示欲が高い人間や、フラッシュモブ男のような想像力が欠如している人間との結婚は絶対に嫌だ。

それを基準にして選んだわけではないが、私の夫はとてつもない「サプライズ下手」である。

サプライズ自体が嫌いなわけではない私は「もうちょっと意外性のあることしてよ!」と記念日の度に物足りなさを感じてしまうほどに。

大体行動が読めてしまうし、そもそもサプライズを仕込む計画力ってものがない。

ちょっとした秘密があっても「今日はサプライズがあるよ〜」なんて自ら口にしてしまうくらいだし(と言っても全然大したサプライズじゃない)。

でも私は彼のそんなところに、とても安心感をもっている。

確かに感動は少ない。

でも感動っていうのは単発的なCMみたいなもので、継続性がない。

その日は「人生で最高!」的な気持ちに盛り上がるかもしれないが、直ぐにそれは日常に混じり合っていく。

日常が素敵であれば言うことはないが、そうでないときの酷さと言ったらないだろう。

基礎ができていなかったら、例えどんなに装飾を施したところでその家は土台から崩れていくように。

ましてや、基礎を疎かにしているのに気づかずに装飾をカンフル剤的に多用していくようなことにでもなれば、愚かさの極みである。

私の夫は基礎がひたすらに強い。

日々私を助けてくれるため、小さな感謝を積み重ねていっている。

信頼はどんどん増していくし、ちょっとやそっとでは壊れないほどに土台ができているのを感じている。

一方父のようなタイプは、派手な装飾を用意し、それをあるタイミングで相手に贈ることにより、日々の自分の怠慢を誤魔化すタイプである。

かつ、「こんなに凄い装飾を用意したんだぞ」と周りに吹聴するからなおタチが悪い。

部外者は日常の地道さを知らない。その装飾の煌びやかさだけを見て「なんて素敵な旦那さんなの」と賞賛の言葉を送りがちである。

そういう「そうだろう、俺は素敵だろう、こんなに妻にいいことをしてやっている」なんて気持ちが透けている男は(女も?)世の中にゴマンといる。

私はこういう男を絶対に夫にしたくない。

いくら記念日に宝石をもらっても、信じられないような感動のサプライズをされてもだ。

それは全て「私のため」ではなく「彼のため」のものだからだ。

私は夫が千疋屋のゼリーを誕生日に買ってきてくれたのが嬉しかった。

千疋屋のものとはいえ、一個1000円もしない。大したプレゼントではない。

だけど、私がクリスマスにこれが好きだと言ったのを覚えていて、喜ぶと思って買ってきてくれた。その気持ちが何より嬉しかった。

何の意外性もないし、何なら「買ってくるんじゃないかな」と予測さえしていたけれど。

でも、本当に嬉しかった。

「偽善行為」は時と場合と人を選べ

こんな主張を、長々としておいて非常に言い出しにくいが、かくいう私は父に性格が良く似ている。

サプライズを人に仕掛けるのも大好きだ。
今まで夫にはサプライズでパーティーを仕込んだり、あっと驚くプレゼントを贈ったり、色々とやってきた。

でも私は自己認識している。

これは全て私の「自己満足」だと。結果的に素直で優しい彼は心の底から毎回喜んでくれる。

ただ、私は「どうだやってやったぞ」感をやはり持っている。

勝手にサプライズを仕掛けたくせに、相手の反応がイマイチだときっととても落胆しているだろう。(幸いなことに上記の通り今までは成功しているけれど)

なんて自分勝手なんだろう。だけどサプライズを仕掛ける私のような人間は皆同じような傾向があると思う。

勝手にやっているくせに、相手の最上級の反応をどこかで期待しているのだ。

期待がズレると落胆したり、もっと悪い場合だと「せっかくやってやったのに」と怒り出すケースもあるかもしれない。
これは本当に良くない。

サプライズ演出とは偽善なのだ。

偽善であることをまずは認識すべきである。

かと言って、私はこれが悪いことであるとは思っていない。なんせ私もサプライズされるのが大好きだから。

今まで嬉しいサプライズもたくさんあった。

大事なのは「偽善である」ことを認識した上で、「時と場合と人を選ぶ」こと。

相手の立場になって考えた時に、本当にそれを喜んでくれるのか?それをとことん考えてから計画すべきだ。

じゃないと私の結婚式や、フラッシュモブプロポーズのような残念な結末を迎えるだろう。

相手の気持ちによりそったサプライズなら、きっとそれは本当に素敵な瞬間になる。

カンフル剤であることに変わりはないけれど、日常に最高のスパイスを与えてくれるだろう。

ちなみに私は派手な演出は好きだし、夫の明るく朗らかなキャラクターにもあっているので、もし彼がフラッシュモブでプロポーズしてくれていたら、それはそれで最高に嬉しかったと思う。
一緒に踊ろう!と盛り上がってたかもしれない。

が、実際には素敵なシチュエーションではあったものの指輪を一緒に買いに行き「ああ今日プロポーズしてくれるんだろうな」という予測のついた状況でのプロポーズだった。
(それはそれでとても嬉しかったので何の文句もない)

そう言えば、プロポーズの瞬間、なぜか指輪は箱ではなく彼のズボンポケットの中のティッシュから出てきた。

「え?普通"箱パカ"じゃないの?」と吹き出した私に照れながら「だって箱だとかさばるし、ポケットに入らないしさぁ…」と拗ねた彼の顔を思い出す。

思えばあれば割とサプライズだった。

感動というより、爆笑だけど。

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