完璧でないあなたも世界はずっと愛している
完璧じゃないといけないと思って、頑張って努力を重ねて、もしもできなかった時の言い訳を考えながら生きてきました。果たして本当に完璧な自分でなければならないのか、ずっと百パーセントの自分じゃなきゃいけないのか、じっさいはどうなのだろう? ということについて考えてみたいと思います。
頑張ることはいいことかもしれません、でもぼく自身はあまり得意にはなれませんし、できるなら頑張らないでいたい、と思います。努力したり、何かがうまくできたり、結果が出ると自分のことを肯定しやすく感じます。
反対にできないとき、失敗したとき、うまくいかないときはひどく自分を責めてしまいます。苦しいくらいに。
でもなぜそうしてしまうのでしょうか? 本当にそうしないといけない? のでしょうか。いえ、ほんとうはそんなことはないはずです。失敗して取り返しがつかないくらい、のことって、そんなに多くないように思います。
時間とともに人の気持ちも変わりますし。もちろん自分も変わります。
失敗をおそれてしまう背景には、うまくできない自分はダメなのではないか、という思い込みが潜んでいるようです。そして、そうでないと世界も自分を受け入れてくれない、愛されなくなるというおもいがあるように感じます。
ぼく自身もそうように考えてびくびくするように、生きていたのですが。ふと、きのう、「百パーセントの自分は誰も求めていないのかもしれない」。そんなふうに思うことがありました。
失敗しない、欠点がない、常にポジティブ、誰のことも悪く思わない。
そんな自分であることをしらずしらずに課してしまっていたようです。小さなときからそのように常に一生懸命に生きる、それがいいのだと周りから刷り込まれてしまっていたようです。
幼少期は判断軸を形成する段階だと思うので、影響のもっとも強い両親の価値観を、無意識にインストールしている時期だと思います。それ以前の時期でも両親の思いやエネルギーの影響は、大きいものだと感じます。
失敗をつよくおそれる、という心理の背景には「この世界はこわいところだ」という思い込みが心の深くに、しのびこんでいる様に感じます。
ぼく自身も、まだまだ世界に対してオープンなわけではないのですが、百パーセントでない自分もOKなのだ、と少し思いやすくなり、完璧主義者さんの心にほろほろとリラックスがひろがっています。
『世界は未完成なあなたを受け入れている。世界は未完成なあなたも愛している。』
きっとそうなのでしょう、赤ちゃんも何かができるわけではないとも思いますが、お世話される立場ですけど、世界の中でちゃんと愛を受けられています。
この世界では今まで習ってきたような、働かざるもの食うべからずのような発想を捨てても、つねに頑張らずとも、前向きに考えなきゃと力まなくても、生きられる。
むしろ、過去の常識を手放すほどに、楽に、自由に羽ばたける。
というのほうが、真実なのかもしれません。
世界はあなたを愛しています。どんなにあなたが自分をきらい責めたとしても、それでも世界はあなたに愛を送り続けている、のですよね。