何が私を駆り立てたのか [イエロー編]
これは非常に危険な行為である。と自覚したのは公開してから9日後のことであった。物語を自分の言葉で振り返ることと、他人に語ってもらいたい欲望。少しだけ自分のルーツを遡る試み、あと少しだけ続きます。
2019年の始まりはHIPHOPだと言えよう。沖縄のスタジオで初めてラップをレコーディングした。これは新しい性行為の手段の始まりだと言える。
ラッパーのBonknown(ボンノー)がエンジニアリングしてくれて、その場でトラックを決めてその場でそれぞれがリリックを書いて歌をうたった。プロ用のマイクを使うと自分の声ってこんなCD音質になるんだ。驚きの連続だった。スピーカーから聞こえる自分の声がこんなに美しいだなんて初めて気づかされたよ。タイトルは「サイキョーになりたい」ああああ、僕らはただサイキョーになりたいだけなのだ。
さて、前回のあらすじはこちら。
2020年が、21歳になった。
① お正月は5年ぶりに東京で過ごした。報道は「カルロス・ゴーン」ばかりで、日本人の〝やり方〟をまざまざと見せつけられてしまった。そんなことより、中島晴矢の個展「東京を鼻から吸って踊れ」を君は見ることができたかい? 僕は見ることができた。ラッキーだった。なぜなら、この展示を最後に(中島晴矢を含め)界隈で展示が行われなくなったからだ。
② 増田捺冶が21歳になった。新年になってすぐnoteを更新し詩を残した。
いいのです、もう踊ってしまいましょう
遺せないけれど、心がつるまで
踊ってしまいましょうよ
(新年に書いた捺冶のnote)
③ 僕らがやっている会社に「映像事業」を追加したい! 社内会議を経て、予算でソニーのカメラを購入。レンズも良いものを選び50万円が吹っ飛んでいった。さぁ、台湾・沖縄・東京でMVを撮りまくるぞ。実績もないしテクニックもない。でも、きっとなんとかなるだろう。
増田捺冶、撮影中にぶっ倒れる
いよいよ2月に東京上陸。FNMNL (フェノメナル)がプッシュする若手ラッパーNowLedgeのMVの撮影の仕事が決まった。増田捺冶と同い年のラッパーだったのでオンラインでのやりとりを通じて構成は捺冶の頭の中にばっちり入っていた。絵コンテが無いのはヒップホップの現場では当たり前!と捺冶が言っていたので、現場の判断でがんばる、ということでいよいよ撮影当日。
さて、この節を僕が書いているということは、この後何が起こるかはみなさんお察しの通りでしょう。友人がやっている喫茶店で夜まで時間を潰した後、埠頭の工事現場や、東京首都高速の下などでスケジュール通り撮影は進んでいった。そして3箇所目のロケ地に移動したときに僕は増田捺冶に手招きをされてクルーから離れたところに呼び出された。
「どうしたの?」
「あの……残りの撮影、ゆうきが監督引き継いでくれないかな?」
「マジ? そんな体調キツいのか」
「味もしないし、高熱がヤバし、立ってるのも辛いし、なんにもできないと思う」
「いいけど、でも、撮影の構成とか曲の聞き込みとか俺はしてないから全体像が分からない。クオリティも下がると思うから、撮影延期でもいいのでは?」
「……いや、今日撮り切らないとヤバい」
増田捺冶はそのまま近くの救急外来に吸い込まれていった。ロケバスに戻り状況を説明し、予定していたロケ場所をすべて巡り撮影は無事に終わった。あとは台湾に帰ってなんとか編集して納品するだけである。「夜の街」というテーマだから、もし撮影漏れがあったとしても風景だけなら台湾で撮影することができる。スタビライザーを長時間持っていたので腕がクタクタだった。点滴で意識レベルが回復した増田捺冶に「撮影終了しました」とメッセージしてクルーは解散した。やれやれ。
大喜利・ヒップホップ・クイズ
Bonknownと大喜利をしたおかげで、言葉について考える時間が増えました。物事をギリギリのラインで飛躍させる大喜利と、物事を自分なりの切り口でもって料理するクイズ作りが融合を見せて春になったのです。
鳥は鳴き、花は咲き乱れ、イルカは音波を出し、人間は詩を書く。この美しさにようやく気づくことができました。そんなときカルロスまーちゃんからLineで「美味しい」連絡がきます。
トラックメイカーのエレクトロニ子さんが楽曲に歌を入れるコンテストを開催したのです。優勝すると10万円、優秀賞(3人)に入れば3万円、入賞(11人)でも1万円がもらえるという熱い戦いでした。
「絶対に! 10万円が欲しい!」
歌なら、この前、歌ったことがある! きっと素人でも大丈夫だろう。ところが、この時点で応募締め切りの4月19日23:59まで残り時間は28時間を切っていました。睡眠時間で8時間使うとして、使える時間はあと20時間。急いで音源をDLしてリリック作成に取り掛かりました。
ところがパソコンに4時間向かってもぜんぜんうまくいきません。言葉が自然に出てこない、血の通った言葉にならない。こりゃ時間の無駄だ。歌詞を書くのを止めよう。とりあえずトラックを3回流して、フリースタイルで録音して、そこからいい部分だけを抜き出そう。音楽を部屋中に流して、iPhoneの録音アプリで思いついた言葉を歌っていきます。1回目、いい感じだ。そのまま2回目をすぐ録音。ん〜ぼちぼちかな。そのまま即座に3回目を録音。いい感じだ。録音データをパソコンに取り込んで、3曲分の歌詞を文字に起こしていきます。
あ。
音楽には「サビ」が必要だ。(ヒップホップ用語ではフックと言うらしい)歌詞だけなら無限に作れるけど、みんなが聞いて覚えやすく、この曲を愛してくれる部分はさすがに頭を使って作らなくちゃ作れない。作ったことがない。ヤバい。構造も論理も分からない。勉強してる暇はない。いろんなラッパーの音楽を聞いて雰囲気を掴んでみよう。
「ANARCHY / Shake Dat Ass」と「十影 / アシダマナダヨ」と「田我流 / やべ〜勢いですげー盛り上がる」のフックの部分を何度か聞いて要素を分解した。分からないけど、分かった。
「みんなが共感しやすいことを、やや抽象化する」
「同じ言葉を繰り返してもいい」
「自分を卑下してもいいけど、聞き手に寄り添うマインドは絶対」
ざっくりまとめると、フックの部分は「簡単な言葉で構成されていて、聞いた人が〝これは私のための歌だ〟と感じるようなつくり」をしていればOKということだと解釈した。あとはそこにラッパーの個性というのを乗せていけばいいのだろう。たぶん。自分の状況を振り返ってみると、写真家と名乗りつつも写真だけで食べれずにデザインやネットワーカーの仕事もしている、そんな状況だけれども諦めないぞ戦い続けるぞ、でも弱気。そんなニュアンスで行こう。それなら俺が歌う意味がある。ぜんぜん限界なのに強がっている自分を鼓舞する言葉……! たとえば尊敬する先輩に言われたい言葉……!
ぜんぜんやれるよまだへーき
これだ。これでいこう。もう深夜3時。悩んでる暇はない。レコーディングに3時間かかったとして、朝6時。2時間ほど仮眠して、そのまま9時から増田捺冶にMVを撮ってもらおう。このスケジュールならいける。16小節のうち半分はこの歌詞を繰り返そう。残りは、動物と固有名詞で適当に埋めてしまおう。
増田捺冶に監督してもらい、朝9時〜19時の撮影が終了。(そう! つまり編集の時間は3時間半ほどしか残されていなかったのだ! ロゴタイプやテロップの作成までやってもらい本当に完成したのです)
前項で書いたNowLedgeのMVはまだ編集中だったので、奇しくも我々の映像事業における初公開作品は僕のMVとなってしまった。
コンテストの結果は入選で、現金1万円をもらった。
俺も過労死よりヤバいものが見たい
そこから拍のなかに文字を入れて歌うのが楽しくなってしまって、叁朝屋にもHIPHOPを流行らそうとメンバー全員で一曲のラップを作った。もちろんMVもその日のうちに撮った。俺たちはだんだんMVの撮り方を自分たちのものにしている実感を掴み初めていた。
日本語、中国語、台湾語が入り乱れの聞いたことのない曲の完成である。これは自信作なのでお時間あるときにぜひ聴いていただきたい。
おれも過労死よりヤバいものが見たい
めくるとき汗かくような指先
から血がほとばしるような
おまえの文章と写真が見たい
ラップにはよく個人宛のメッセージが含まれていたりするので、今回はチャレンジとして「増田捺冶へ個人宛のメッセージ」をリリックにして歌った。やってみると意外と恥ずかしくない。こんなに個人的なこと、おおやけに向かって叫んでいいんだ! ヒップホップってめっちゃ楽しいな! 言葉を書くことにどんどんハマっていった。スイッチが入ったら無限に言葉が湧いてくるので、拍に合うように8小節ごとにリリックをTwitterに書き始めたのもこのころだったように思う。
特に深夜になると「自動筆記モード」に入りやすくなるので、誰も読んで無いのにリリックを書き続けた。このギリギリの綱渡りの言葉ゲームをやっている人は少ないので、もし同志がいたならば連絡をください。
旅行はなるべく──遠くへ
2020年は旅行をしまくった。もしこの年にタイトルをつけるなら「旅行の狂気」だろう。毎月のようにどこかへ旅行をした。増田捺冶が車の免許を取得し、行動範囲が大きくなったのも大きい。ここいらで台北以外の景色を見てみよう!
台湾の東側は砂浜がなく、海岸がすべて石が集積していた。見たことない景色だった。素敵なタイミングで虹が現れ、私たちの心はひとつ神に近づいたといっても過言では無い。まさに世界から愛される経験を得た。絵本や神話が真実であると実体験で分かるのはいつぶりだろうか。あらゆる旅行には再発見がある。もちろん再遭遇も。
この頃から馬渕尭也(たかや)という男が叁朝屋に暮らし始めていた。彼は高校を出てから台湾に来て語学留学していて、叁朝屋の初期に3日だけ滞在してから花蓮で半年間語学学校の寮に住んだ。その後、残りの半年間を叁朝屋で過ごすことを決めてくれて、長い時間を一緒に過ごした。
文章や写真を丁寧に扱う人で、不思議なことに台湾に来る前から僕のことを知っていたらしい。文学が好きで、日常や世界における〝陰り〟というものを大切にしていた。
そういった「物静かな文学少年」として世間からカテゴライズされて生きてきた馬渕尭也にとって、僕らのゲーム・プレイングが受け入れられるだろうか? 詩やヒップホップや写真を僕らは愛している。が、愛していると同時に馬鹿にもしている。退屈な人間のやる遊びだと。そういったメンタリティが根底にあるから、怒られるような表現や「素人芸」に美を見出している。
だから、そのような態度を見て「なんかシニカルな大人がいるな〜!」って尭也に思われたらどうしようと思っていた。ところが話しているうちにだんだん似ているところを発見してきた。生きることの悲しみ、苦しみを共に共有してくれたのだ。
こういう与太話はだいたい言葉にできないのだ。だから生活という言外のコミュニケーションがあって、なんとか成立したように思う。ここから先のエリアの話題はSNSで語られることはない。ゆっくり考えたい、ゆっくり踊りたい、ゆっくりセックスしたい。そんなエピソードは、現代のタイムライン速度に押し流されて海と混じり、薄まり、そして消えていく。そんなことをさせないためにここから先の文章は僕らだけの秘密にしてほしい。まずは「叁朝屋交換日記プロジェクト」で馬渕尭也が書いた文章を引用する。
叁朝屋に住んで、四ヶ月が経つ。正直なところ僕が叁朝屋に来たのは、「雑誌令和」を読んで元々僕が興味を寄せていたゆうきとなつやが、偶然叁朝屋を開いたのを知ったから。ここにきてからは、ゆうき、なつや、あらゆる人の努力や才能を目撃し、心を動かされ、僕自身も自分自身のやるべきことへの情熱を奮い立たされた。しかし、時が経つにつれそれは、自分はまだ何もしていない、ということを自分自身にはっきりとわからせてきた。と同時にそれはこれまでの自分の確信的ではなかった、わずかな自信を確実に失わせ、自分のしたいことをも見失わせた。僕は叩きつけられた。
(•••)
少し、ゆうきが日本に帰った日の夜の話をしようと思う。
一月ほど前の話だ。叁朝屋のこれまで、これからのことについて四人で話をした。ゆうきは、初めの頃、叁朝屋にいることが時々辛くなる時期があったと話してくれた。なつやはどこまでも思想的でありたいと話した。これに対して、思想がないと今自分たちが何をしているのか分からなくなる、とゆうきは答えた。
(•••)
突然、ゆうきが離れてしまうということを、まるで今初めて知ったかのように涙が出てくる。これからもよろしく、と四人で最後の挨拶を交わす。なつやは、初めてちゃんと宜しくと言えた、と話した。僕も、同じことを思った。話が終わり、皆それぞれの場所に戻っていく。僕はひとりその場から動かず、さっきは何について涙を流したのかを考える。
(•••)
なるほど。きっと僕は、誰かと生活をしていたんだ、ということに気付いたのだと思う。ふと、何がおかしいのか、不思議と笑いがとまらなくなって、深夜の一時、人通りのない道路に向かって逆立ちをした、景色が反転、ひっくり返って尻餅ついたら、生活をしよう、そう思った
ちゃんとした生活をするとか、ルールを守るとかそういう話がしたいんじゃない。もっと先に進みたい人がここにいるし、それが僕の〝命(mei)〟を生永らせている。自信とか、実績とか、テンションに惑わされるな。「テンションを上げるな」はマルチネレコーズのTomadの言葉だけれど。
雑誌令和の広報動画をアップしたときも「男性器が写ってるけど大丈夫ですか?」という問い合わせが来た。そういうもので足取りを止めるな、と言っているのが伝わらないのだ。だから伝わる人がいると嬉しい。きっとこの喜びが僕の生きている意味なのだろう。
生きる意味なんて目の前にあるのに誰も教えてくれないし、学校の先生は嘘つきである。その事実から逃げてたら始まらない。歴史を学び、肉体を鍛え、目の前の幸せに殉職する。それだけですべての人生は満たされるはずなのに「足りない、足りない」「もっと、もっと」それから? 成長前提につくられたあらゆるもの? 「上位から採る」ってルールだと、受験生の苦労が無限大に収束していくことが分からない? あなたの仕事は誰を幸せにしているの?
労働によって、家族が、コミュニティが、友情がバラバラにされていることにもっと怒れよ。いま自分たちが畑を耕して食べ物を獲得できないぐらいに弱体化されていることに気づけよ。このまま進んだら結局「人間同士の戦い」になることから目を逸らすなよ。
結局のところ自分は天才なので、なにをやっても2年ぐらいでモノにしてしまう。それが最も苦しいことであるし詰まらなかった。華道の先生になっても、山奥で暮らす陶芸家になったとしても自分は自分として咲くだろう。それが恐ろしく退屈だった。揺り返す繰り返しと、自分から逃げれない恐怖。魔法使いがやってきて「ミツバチ」にされようが「チューリップ」にされようがゆうきはゆうきであるのだろう。恐ろしいことに気づいてしまったものだ。セックスをしたら相手と人格が入れ替わる、という世界のルールだったらどんなに楽しかっただろう。
それから馬渕尭也はYoutubeチャンネルを立ち上げた。あらゆる表現手段を飲み込んで、僕たちが共に過ごした日々を動画として完成させた。神様、見ているかい。〝石に彫り込んだもの〟以外はすべて消えて無くなってしまうことが歴史で証明されているこの世界において、生きていた証がここに生まれた。やったね。喜びとともに踊ろう。カメラを作った人、Youtubeを発明した人、すべてにありがとう。
(実際には次の記憶媒体はDNAだと言われている)
JPN / TYO / NRT
台湾政府がビザの期限を30日伸ばす措置をしてくれたので、6月初めまで滞在することができた。とはいえビザの限界値が来たので6月4日に成田空港着陸。エアバス320の機体は180人乗り。乗客は僕を含め7人しかいなかった。こんなにガラガラな飛行機は初めてで、燃料代すらペイできないだろうなという感じで心配になった。飛行機を降りタラップを抜けると、そこはパニック映画の様相を呈していた。
「ここに一列に並んで!」
見たことない重装備で身を包んだ空港職員。え? アメリカ映画にでも潜り込んでしまったのか。壁や通路はビニールで物々しく覆われ、動ける範囲が明確に制限されていた。僕ら乗客は通路に一列に並ばされた。
「両手を広げてください! 指の先が隣の人とぶつからない距離を保って!」
なんか小学校の準備運動みたいだなと思って僕ら乗客7人はきっちりと規則ただしく並ぶ。分厚い防護服からわずかに見える空港職員の顔を覗きこむ。35歳ぐらいの男性だろうか? 顔が見えない人間に自分たちの動きをコントロールされると不思議と恐怖感が襲ってくる。重装備と、僕らのTシャツ・短パンのコントラストが少し滑稽だった。飛行機では客同士でまったく会話しなかったけれど、今、この段階において乗客たちは謎の一体感に包まれていた。
「一列を維持したまま付いてきて! はぐれないように!」
重装備に言われるがまま、長い通路を歩かされた。どこまで行くんだろう。空港に設置されている「動く通路」は死んだように止まっていた。僕たちは機内で書かされた「問診票」を手に持っていたので、紙がカサカサと申し訳なさそうに通路に挨拶した。どれくらい歩いただろうか。通路の先に光が見えた。蛍光灯がバチバチに付けられた眩しい部屋にパイプ椅子が等間隔に並んでいる。あまりの光に、僕たちは暗い通路を歩かされていたのだと今になって気がついた。
スーツを着た、笑顔で低姿勢の職員がやってきた。重装備は低姿勢と一言二言の会話をすると踵を返し、自分の持ち場に帰っていった。低姿勢は僕らのほうを向いて話し始めた。
「みなさん飛行機おつかれさまでした。これから体温を計らせていただきます。温度はお手持ちの問診票に記入してください。そのあとポリメラーゼ連鎖反応の検査をします」
パイプ椅子には手書きの紙で1、2、3、4・・・と番号が振ってあり、ここに座って順番を待つとのこと。温度計を脇に差しながら、僕はさっさと逃げることを考えていた。中国からの最新情報が2019年12月から中国語でそのまま台湾に入ってきていたので、これがただの「集団パニック」なのは事前に知っていたし、日本の憲法・法律では拘束行為は警察じゃなくちゃできないはずだ。ピピッっと温度計が服の中で鳴る。
「すいません、トイレに行きたいんですけど」
低姿勢は驚いた顔で僕を見た。想定外のパターンだったらしい。上司に電話で判断を仰いだのち、来た通路を戻って空港のトイレを利用していいとのことで、歩いて来た道を戻る。トイレの個室に入って携帯を取り出し、これまでの状況をメモする。さっきの部屋にはそこらじゅうに「撮影禁止」の札が立っていて携帯を出しにくい雰囲気だったのだ。窓は無かった。トイレから逃げ出すのは無理のようだ。入国審査ゲートより手前のエリアなので、そりゃそうか。
検査が終わると「すぐ帰りたい人」と「検査結果を待つ人」に分かれて待機する。すぐ帰る人は迎えの車が来たら車に乗るところまで職員が複数人ついてくる。こっちから逃げるのは無理そうなので、結果を待つことにする。どんなホテルに案内されるんだろう。
正解は、使っていない国際線ロビーに作られたダンボールベッドに収容されるでした。冷房効きすぎで寒いんだよ。30分ぐらい待って荷物整理も終わって飯に行くとする。なにも食べてない。いまのところ監視は女性2人。扉に鍵はかかっていないことは確認済みなので「お腹すいたんで、飯行ってきます」と早足でしれっと抜け出す。追っ手の感じはないぞ。エスカレーターで1Fに降り、第3ターミナルのほうへ歩き出す。これは、やはり想定通り、持ち場を離れられないスタイルか。と思ったら追いつかれる。女性職員は外国の方なのに日本語が喋れてすごい。僕は寿司が食べたい、と伝える。飲食店は閉まっているのだと教えられる。コンビニを提案され、その案に乗ることにする。コンビニに裏口がないか探す。無い。
そして部屋に帰還。滞在者の視線が熱い。ってか警備の手が薄いタイミングで逃げなかったんか君たち。職員と親しくなったので布団をもらう。そしてネットに繋げる方法をみつけ、寝る。起きる。トイレ行く。警備が女性2人から男性3人に変わっている。そして18:00になり、スーツを着た厚生労働省の人たちがゾロゾロ入ってきて散らばる。僕の前には50歳ぐらいの男の人がやってきて、検査結果が陰性ということを告げる。知っとる。また付いてこられては大変なので強気で「電車で帰ります」と宣言する。
「強制力はありませんが、厚生労働省は公共交通機関を使わないでという指示であります」
さっすが大人の男性職員、話が早い。「そうなんですね、分かりました」と言って僕は外に出る。本当の自由だ。ジブリ映画『風立ちぬ』の黒川のセリフ「日本が近代国家だと思ってたのか」を思い出していた。
俺がピカチュウではない可能性について
日本の国民的アニメとしてポケモンは欠かすことができないだろう。さて、問題です。僕がピカチュウではない可能性はどれくらいでしょう? あるいは僕がピカチュウである可能性はどれくらいと計算できますか?
このような問いで日本が割れていた。検証可能性がないのに、自分の信じるものだけで割れていた。「ライブドア事件」もホリエモンが悪者にされていたし、「北朝鮮」はヤバい国って思わされてきたじゃん。関東大震災で、なんにんもの罪のない人たちに手を出してきたよ俺たち。「食べログ★4.5なんだよね」じゃなくて大事な人に薦められた店に行けよ。ずっと変わってないんだよ俺らは。何を信じていいか分からない世界になったからこそ、大切な友達でネットワーク作るんだよ。
雑誌「令和」を読んでお前らはどう変わったんだよ。
(適切な変顔の例)
人前でサクっと全裸になれないなら、お前の中に何か起きてるんだよ。楽しいステップで踊れないなら、踊り方を思い出せてないんだよ。今だけ・金だけ・自分だけの友達に囲まれてるから、自分が見つけられないんだよ。
もう本当に思ってることSNSに書けなくなっちゃっただろ。2020年までに自分が輝けるコミュニティ見つけられたか? 気づいたらバラバラにさせられるんだぞ、俺たちは。ブラック労働や、細切れにされた住宅構造によって、大切な友達より、会社の上司と一緒にいる時間のほうが多い人生に連れて行かれちゃうんだぞ。そのことに、もっと怒れよ。
友達に直接言いたいことを伝えて、沈黙を超える瞬間を感ようよ。noteに文章書いたって誰も読んじゃくれない。人々は音楽にしないとメッセージなんか聞いちゃくれない。あなたが家を建てるはずだった場所に、金持ちが先にアパートを建て、あなたから家賃を永遠に奪っていく。この悲しみは「100万ボルト」で消えるんだろうか。
本番、ヨーイ、アクション。
毒キノコピンクの所有するブランド「killremote」の撮影が某ハウススタジオで始まった。ディレクターは松島やすこ。クリエイティブ監督はなんと、としくにさんが務めた。
撮影監督は川北ゆめきさんが勤め、映像作品を作っていった。それと同時に同じ現場で写真も撮影するということで萩原楽太郎のアシストに入った。限られた時間でモデルさんもひっきりなしに着替えて、写真エリアと映像エリアを行き来した。
プランニングはやばおが担当し、渋都市株式会社の全勢力を使って映像作品と写真を作り上げた。こんな最高のクリエイティブが自分たちの力で作れるなんて、すごい不思議だったし、2008年に夢みてた未来が2020年になってようやく叶った気がする。渋家が歩んできた13年間がこうして形になることは感慨深く、心の宝箱にそっとこの1日をしまいこんだ。──そのころ、渋家は大変なトラブルに巻き込まれていたのを僕は知るよしも無かった。
北海道 → 愛媛県松野町 → 東京
huezの仕事のバックアップで北海道へ行きました。それはそれとして、約束があったので即座に愛媛県に飛びました。元渋家メンバーの増沢大輝が水上夏実と結婚して愛媛に移住したので「友達が地方に移住したとき、いの一番に遊びに行くやつ」というトロフィーを獲得しに行きました。
増沢大輝はさまざまな技術や知恵を手に入れていて話していて面白かった。もともと大輝はなんでもできるやつだったけど、こんな町おこしも成立させられるのかと驚いた。とにかく松野町はこんなラッキーな人材を安くゲットできたことをきちんと噛み締めて欲しい。2020年12月から「移住支援金」も緩和される上に、2021年度からは「テレワークも補助金対象」となるとされていて、今の仕事をしたまま地方(首都圏以外)に引っ越すと最大100万円がもらえる「地方創生起業支援事業」も本格的に稼働します。
そうなってくると2021年以降は人が地方に移動して、あらゆる自治体が「人間の取り合い」になってくるでしょう。そうなれば遅かれ早かれ勝ち組の自治体と負け組の自治体に分かれてしまうので、いかに早い段階で町や村を盛り上げるか=自立したコミュニティを成立させられるかが鍵になってきます。若者は村の雰囲気の悪さというものを敏感に感じ取り、決してそういう町には移住してきません。渋家の連中が持つ、コミュニケーションのプロ具合は半端ない上に、増沢大輝はそれの筆頭のような存在。自分が町長や村長だったら絶対に欲しい人材。こうして培ったノウハウが地方で生かされているのは純粋に嬉しく、ようやくコミュニティの大事さ=コミュニティは勝手に存在するわけではないというのが地方まで浸透してきていよいよ令和時代を感じた。
丸々2週間、子供達とも遊んで東京へ戻ると、怒涛の引越しラッシュでちゃんもも◎の引越しを手伝ったり、パラストの引越しを手伝ったり、としくにさんの引越しを手伝ったり、サテライト事務所の移転を手伝ったり、2020年は年末に向けて怒涛の整理を初めておりました。
新大久保UGO
年末は花崎草さんと一緒に渋家名義で「第一回UGOフリマ」に参加しました。何度かUGOには遊びに行っていて、作品を作る気概に満ち溢れた素晴らしい場所が出てきたと、羨ましく思っていた。自分が21歳だったらめっちゃ持っていかれるだろうなと思った。渋家は作品よりも「合意形成」とか「チーム力を高める」ことが重視されていたので、渋家名義の展示は5〜6個しか実はない。ここでは個人の作家性が大切に扱われていて、好きなように表現を取り扱うことができているように見えた。
渋家の人たちも新大久保UGOには興味があったようで、20人ぐらいに声をかけてフリマに出す作品や古着を集めてもらった。藤田直希がカタルシスの岸辺さんと共同で倉庫を借りたのが功を奏し、引越しの際に失われていたであろう、かなりのアーカイブ品を保護してくれたおかげで、菅井早苗の初期作品や、渋家の看板、A0サイズのアクリル集合写真など100品目の作品が展示・販売できた。
この日の夜に、富永剛総さんに荒木経惟飲み会に誘われたのだけれど、スケジュールが合わず参加できなかったのが2020年の心残りだ。
(killremoteの撮影打ち上げ)
ようやく2020年を終わらせられた。本当は2記事ぐらいで終わらそうと思っていたのだがずいぶん長くなってしまった。次で、本当の本当に終わり。
最終回書きました。
(おまけ)
(増田捺冶が体調不良の中、完成させたMV)