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不登校といじめと学校と,私自身。
先日,教育評論家,尾木直樹氏の不登校という言い方はそろそろやめたほうがいいのでは?というコメントを読みました。 彼の頭の中には,学校は嫌いだから行けないという先入観があるようです。半分間違いです。
好きの反対は嫌いとも考えられますが。 本当のところは,好きの反対は無関心なんです。 尾木直樹氏は学校に対して無関心な生徒の不登校の事例を知らないのでしょうかね?
もう20年くらい前の映画ですが,佐野史郎さんが出ていた「毎日が日曜日 」では,父と娘が両方とも会社と学校を放棄して便利屋をやるという映画です。学校生活よりも私生活の方に興味があった場合,あえて学校へ行く必要もないという趣旨の映画でした。
尾木直樹氏はこういう学校無関心型の不登校の子に対して、どういうアプローチをするんでしょうかね?彼はそういうことを全く知らないんでしょうか? 情けない話です。
学校へ「行けない」のと「行かない」には,まったく本質的に違いがあるのです。
しかしながら、学校に行けない子どもたちの中には、やはり「いじめ」よるものが沢山あることは事実です。 子どもから大人まで全くストレスがないという人も珍しいと思います。
そのストレスを立場の強い者から弱い者へのはけ口にするのがいじめの,ある意味での本質だと思います。 子どもの場合、立場の強弱は入れ替わることもあります。
情けないことに,大人でも,大きな会社が下請けの会社に資金面でのしわ寄せをして,中小企業を苦しめるいじめもあります。 大人の社会も子どもの社会も同じようなものです。学校は擬似社会,つまり社会のなれの果てですから。
しわ寄せや,うさばらしでで苦しむ人がたくさんいるんですね。 映画「鏡の孤城」で主人公の友達が「ああいう子(いじめっ子)なんかどこにでもいるから、私はそんな人たちにはもう負けない。」 というセリフが印象的でした。
でも、残念ながら,自分のストレスを飲んだ勢いや,仕事のミスなどにつけ込んで,立場を利用してするパワーハラスメントでウサ晴らしをする人もいます。私は,見てくれが小さく,内気に見えるせいか,よくとばっちりを受けました。
学校へ行けないのは,見えない糸か絡まって,たくさんの因果律からなっているので一つ二つの原因では計り知れないということは前に述べました。 しかしながら、学校というところは外向的で活発な子どもが適用しやすいことは事実です。
多くの先生はここで述べたような子ども時代を過ごしていた目立つ優等生だったので内省的で,懐の深い,落ち着いた,慎み深いこどもの理解ができず,対応できないんですよね。
私も小学校の中学年あたりまでは。 内向的で口数の少ない子どもでした。 それでよくいじめられました。
小学校5。6年の担任の先生が同じ先生でした。何かにつけて私をみんなの前に引っ張り出してきて,学級委員だの小学生の弁論大会だのと,とにかく人前に出ることに慣れるようにスパルタ式な対処してくださったんです。
おかげで。 具材は内向的だけれども,衣は外向的で活発な「天ぷら」のような私が誕生したわけです。 教師として勤まったのは,その先生のおかげです。
私の本質は内向的なので。 あまり日の当たらない子にも目配りしたつもりです。そういう子たちにも好かれました。 私は熱血的なリーダーというよりは,本当は参謀向けなんですよね。