【山あそび】登山道がない朝日軍道を歩く
(2016文字)
かつて、山形県に朝日軍道という道があった。
開削を計画、指揮したのは上杉家の家臣、直江兼続。
1598年に越後から会津へ移封された上杉家は、今の福島県、会津地方から中通りと、山形県の置賜地方(米沢市、長井市あたり)、さらに庄内地方(今の鶴岡市あたり)と佐渡島を治めることになった。
ここで問題発生。
以前は越後から庄内まで繋がっていたのが、庄内地方が飛地になったわけですね。
置賜から庄内に抜けるには、最上家の領地を通らなくてはならない。
有事の際にはそこを閉ざされれば庄内は孤立してしまう。
これを避けるために作られたのが約65kmの朝日軍道。
「山の中に道を通しちゃえば良いんじゃね?」
と直江兼続が言ったかどうか分からないけど、一年の歳月を費やして完成させたという。
つまりこういうこと。
今の朝日連峰の縦走路と同じようなルートを通っていて、一部にはその名残と思われる場所もある。
このサイトにある写真の、登山道の脇に九十九折で続いている跡がそうだと言われている。
軍道だから馬や荷駄も通れるような幅で開削したらしい。
今の登山道を合わせるとこんな感じ。
赤い線が登山道で、緑が朝日軍道。ほぼ朝日連峰の主稜線を通っている。
ただ、はっきりした場所は不明。前述の通り、現在の登山道の脇にわずかに跡が残る程度。
そして問題はこの北側。
三角峰から北は、登山道がない。
なので、残雪期に歩く人はいるものの、ひたすら藪が続く山を歩く人はあまりいない。
この茶畑山から三角峰までを、冷水沢を登って周回してきたわけです。
詳しくはヤマレコの方にも載せていますので、興味がある方はぜひ。
それにしても、よくこんなところに、しかも約65kmに渡って軍道を作ったものだと思う。
いや、あの時代だからできたのかもしれない。軍事のためなら金も人も借り出せる時代だから。
そして400年以上の時間が経ち、荷駄が通れるように整備された道がなくなるという自然の回復力にも驚かされる。
どこかに痕跡はないかと思って歩いていたところ、2ヶ所でもしかしたらという場所があった。
まずひとつは茶畑山の山頂。
今は閲覧できなくなっているが、ここを調査した人のサイトでも山頂にある幅6尺ほどの切り通しのような地形が朝日軍道の跡ではないかと載せていた。
ただ、その場合、道は北に向いていなければならない。しかしこの切り通しは東西に向いている。
しかし、確かに自然の地形というには不自然。
朝日軍道だと断定できるとは言えない。
写真を見ても良くわかりませんね。藪だらけで。
もう一つは茶畑山から戸立山の間のこの地形。
小さな山頂が二つ並んでいて、その間が低くなっている。
もし道を通すならここだろうと思っていた。
わざわざ山頂に登る必要はない。
実際に行ってみるとちょうど真ん中あたりがこんな感じだった。
約2mくらいの幅で続いている。
確かにこういう地形はあるけれど、それにしても真ん中あたりは妙に整っているようにも見える。
元々の地形を整えた可能性があると思う。
まぁ、予想したからそう見えるのかもしれないけど。
あとは、地図上の池塘(ちとう:湿原の沼みたいなもの)を巡りながら歩く。
1日目は熊が整地したのかもしれない場所を見つけてビバーク。
翌日は朝から靄の中。
ひたすら藪を漕いで次の池塘へ。
ここはもう池ですね。
さらに進んで戸立山。
しかしこの手前の藪が特にキツかった。
あらゆる灌木(かんぼく:高山帯で大きく育てない木)が壁になり、そこにツルが絡む。
今回ばかりは鋸を持ってくれば良かったと後悔した。
これが茶畑山から見た戸立山。
霧雪期に登った人はそう多くないと思う。
その向こうに見えるのが以東岳。
よく見ると、山頂の右側に以東岳避難小屋が見える。
さらに進んで、地図に載ってる池塘まで。
晴れていれば美しい紅葉をもっと楽しめたのになぁ。
次の池塘を過ぎた辺りでタイムアップ。
さらに次の小さな池塘の脇にビバーク適地を見つけて2泊目。
翌朝もまたガスの中、出発。
1時間半で登山道に抜けた。
前後したけど、茶畑山までは冷水沢を沢登り。
秋の味覚もあったけど、採取する余裕なし。
あとはタキタロウで有名な大鳥池で休憩して下山。
そんな三日間でした。
歴史ロマンと冒険の旅。
楽しかった、訳ではない。
藪の中で何度後悔したことか。
何度、もうやめようと思ったことか。
でもやってしまうんですよね。
やっぱりこれがボクの「楽しい」なんだろうな。