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創作全般の覚え書き

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自分の、あるいは社会の創作の話題で反応してしまったことの覚え書き
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#創作

当事者として自らやるのだから整合性の無い自分への批判や無理解は不快ではあっても影響は受けなかった

私は、独立してから29年程創作品の製造販売のみで生活しておりますが(2023年時)子供の頃から美術その他創作的な物事は好きではありながらも学校の美術の成績はそれ程良くありませんでしたし、学校の何かの創作系コンクールでも評価された事は殆どありませんでした。 実際、審査する教育者や芸術家たちにウケるような作品を作れなかったからそれは仕方がありませんが、自分としてはそれなりに納得したものを作っておりました。しかし、それは意図はあっても技術と知識不足から一般に理解してもらえるような

私は偉い人の言葉を鵜呑みにしません

私は一般的に有名人の言として紹介されているものであっても鵜呑みにはしないので、例えばこういう話を鵜呑みにしません。 【〜技術は、つねに古いものを“否定”して、新しく創造し、発見してゆくものです。つまり、芸術について説明したのと同じに“革命的”ということがその本質なのです〜】 ・・・これは、昭和の時代の有名芸術家の言葉ですが、芸術や技術に関してのこういう言い回しは本当に良く使われますね。 しかし私は上記のような言葉は疑ってかかります。 私は、色々なものを調べた結果、芸術

基本的な型を身に着けているから崩しても良いものになるのではなく、崩しが上手い人は元々の資質と才能で崩しが上手いのです

これは、絵や書だけではなく、何事においても言える事です。 「基本が出来ているから崩せるのだ、ピカソは基本的なデッサンがあれだけ上手いから、ああいう崩した絵が描けるのだ」 と、主張する人がおります。しかしそれは、一見良い事を言っているようで、本質的には外れています。 事実は 「崩した絵や字が上手い人は、元からそういう資質と才能を持っているから、それが上手いのだ」 そして 「その人の表現上、必然から崩したものが必要だった」 です。 多くの人が言う「基本が出来ている

描きたいものは無いけども絵を描く事は好きという人

は、意外に多いです。 もちろん、これは工芸系でも当てはまります・・・あ、というか、大人になって収入のために仕事をする場合は、全てに当てはまるか・・・と書いていて気づきました。出だしからイキナリかい!笑 何にしても、職業にする場合は、どの分野でも趣味と違って単に好きなだけでは通用しませんから「それほど好きでも無い事だけど、他の人には耐えられない事が耐えられる」とか「それほど好きでも無いけど、それほど苦労無く他人よりも出来てしまう事」を選択するのが良いですね。 世の中、自分

その人らしさが出ている表現物は強いですね

先日、久しぶりにフランス料理界隈の情報をネットで観てみたのですが、やっぱり先端の料理人、お店は大変ですね・・・ 1990〜2000年ぐらいの最先端は、今は「ビミョーに遅れた老巨匠」扱いだったり・・・お寿司もそうですけども。 現代は、食材の流通や保存技術、調理技術の進化も早いですし、ワインもいろいろ進化していますし、グルメたちは評判の店をぐるぐる回っていて、ブログなどでその感想を公開したりなど、批評的感性も鍛えていますから料理を提供する側は大変です。 昔は最高に美味しいと

技法や方式自体を目的化・価値化しても創作的な質が保証されるとは限りませんよね

伝統に関わる何かしらの物や事、そして地域の特産品などの品質を一定以上に保ち続けるため、何かしらの決まりをつくり、それに正しく従ったものだけを正規のものとして認定する、というのは良く行われる事です。 その仕組み自体は良いものなのですが・・・ しかし、その決まりのなかの何かしらの技法や方式・・・その決められた範囲で数種の選択肢が許されているのに、一部だけを取り上げ「これだけがホンモノ」とし「それを行っているウチだけがホンモノで他はニセモノ」と、一方的に自分を上げ、他を下げる人

現場の勢いが作物に乗る

先日、オーストリアでピアノの調律師をしている日本人の方の番組をYou Tubeで大変興味深く拝見しました。 内容は、ぜひ上記のYou Tubeをご覧になっていただいて・・・ ザックリ説明しますと、 調律師の方が、普通一般で言うキチンと調律/調整を行ったピアノに対してピアニストが「こんなにバランスがとれてキレイな音が出るピアノでは私は美しい音楽を作れない」と文句を言って来た、戸惑った・・・というようなものです。三種類の話が語られています。 ピアニストのグレン・グールドが

民藝的な美を産み出すのは大変難しい

民藝的審美性、その美というのは 職人が、そしてその地域が、美や創作など意識する事なく、日々の生業として当たり前にやっている事から自然発生的に産まれる美 ・・・なわけで、そういう意味では、民藝運動の人々が主張する通り「天才が作り出す美ではなく、凡人が作り出す美というものがある」わけですが、しかしそれはむしろ、ものづくりとしては、むづかしいです。かなり。 「意図すると、それを得られない問題」 が出てくるからです。 「それを知らなかったから自然に出来ていた」事が「意識した

人間は人工物のなかに生きている

天然素材を使った、凝った美しい手作りの工芸品をつくる際には、沢山の廃棄材が出ます。 人の感覚に心地よいものを得ようとするほど、出ます。 人々は手作りの工芸品を可能な限り「選びぬかれた天然素材で高度な技術によって作られたもの」であって欲しいと思うことと思います。本体のみでなく、副材料の部分も天然素材が理想です。 それを実現するには、沢山の天然素材から良いものだけを選びぬき、その選びぬいた素材から不要な部分を大胆に削り落とし、必要なものを外部から、もちろんそれも選び抜かれた

いわゆる名人芸の多くは好きではないです

わたしは、いわゆる名人と呼ばれる人の仕事の殆どは好きではありません。 それは、同じ価値観の集団の喜ぶツボを熟知している人が「ホラ、コレが欲しいんだろ?」と、いやらしく巧みに球を投げているような感じが気持ち悪いからです。 また、受け止める方も「お互い熟知している狭い、独自の価値観での馴れ合いのうまい人を名人とする」感じです。 ある程度の期間はそこに文化的熟成の味わいは産まれますが、創作性という新鮮さは少なく、一定の期間を過ぎればそれは熟成から腐敗に変わります。 しかし長

僅かなズレがあるから引き立て合う

いろいろなものを、いろいろに組み合わせて新しい創作を行う事が「取り合わせ」だと私は考えております。 それは簡単ではなく「ただ好きなものを合わせただけ」ではダメですし「良く馴染むだけ」でもダメなのです。それでは退屈なものになってしまいます。それでは水に水を足したようなものです。 単調に合い過ぎている取り合わせは、音楽のメロディで言えば、効果を考えずに複数の楽器で同じ音を奏でているようなものです。(意図的に音に厚みをつけるためにそうするのではなく) 違う音を弾くからハーモニ

シンプルさは、構成要素を同じ方向に向けてやる事によって産まれる

画家のマティスが本のなかで「”単純さ”と”簡単さ”は全く違う」と書いておりましたが、全くその通りだと思います。 ここでは「単純=シンプル」という言葉づかいにします。 「様々な要素が連動し、ひとつの個性として働く存在」である「シンプルさを持ったもの」と「内容が空疎で薄く、練り上げられていない簡単なもの」とは全く違います。 良く「無駄なものを削り落とした云々」がシンプルさの説明だったりしますが、それだと「失うものが多い」のですね。それだと、実用的・感覚的両面において限られた

創作的部分も仕事でやるなら職人技術です

職人の世界で良くある事ですが・・・ 例えば、染物の分野において・・・ 藍を天然のものだけで起こして良い染を出来る職人さんがいたとして、しかしだからといってその人は具体的に文様の研究をし、文様染の技術を訓練したわけではなく、創作全般を学習し、訓練し、自分化したわけでもなく、天才でもない限り元に備わっている創作性は普通レベルの人と同じなのだから「良い文様染」「良い染物」に出来るわけないのに、なぜか「自分は元から創作性の備わった目覚めた人間だ」という態度で恥ずかしいレベルの酷い

ああ、この人、業界人なのに根本的には美とか創作なんて興味が無いんだなーと思う時(1)

アートギャラリー、審美眼が売りのお店、いろいろコダワリのお店が星の数ほどあり、いろいろな姿勢と販売スタイルで商売をしているわけですが、制作する側として「あー、これは根本的なところは合わないなあ」と思うことは良くあります。 だいたい、そういう人とは、しばらくすると、関係が終わります。 そういう場合は、こちらから引きます。 例えば・・・いろいろなことを沢山経験しましたが、今回はこんな例を挙げてみます。 ・・・あるお店で個展をしていただいた際、店主さんと雑談をしている時に、