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推し友とシスターフッド
知っているのは、たぶん女性だろうということだけ。本名を知らない。年齢も、出身地も、職業も、これまでの経歴も、家族構成も、いまどこに住んでいるかも知らない。もちろん顔さえもだ。
友人知人なら、名前も、だいたいの年齢も、顔だって知っていて当たり前だ。けれど彼女たちは違う。知っている情報は限りなく少ない。だとしてもわたしたちはつながりを感じる。同じ「推し」を応援しているというただその一点において…
SNSでつながっている何人かの「推し友」がいる。直接顔を知っている人もいるが、お会いしたことがない人もいる。
SNSやネットを介してお互いの存在を知り、相互フォローになり、推しについて語り合い、遠征レポートを見せてもらう。もしかしたら一生知り合うことはなかったかもしれない人たちに、推しという共通点があればこそ出会い、古くからの知り合いのように話すことのできる不思議さについて、時々考える。
しばらくお付き合いしていると、だんだんその人の個性や生活感が見えてくるのも面白い。この方はたくさん現場に行っているなとか、この方にはこんな趣味もあるんだなとか、この方は●曜日がお休みなのかなとか、最近引っ越したんだなとか…人となりが見えてくると、その人についてもっと知りたくなってくる。
けれど、むやみやたらに詮索することは避けなければならない。また、自分について話しすぎることも。わたしたちのつながりは、あくまでも推しの存在あってこそ。推しはいわば玄関みたいなものだ。それより奥に踏み込むかどうか、それより奥を見せるかどうかは慎重になる必要がある。
なぜなら、「同じ」推しを介してつながる推し友の関係に、仕事の違い、年収の違い、家賃の違い、更にはパートナーの有無、子供の有無などの「違い」を持ち込みすぎると溝を生みかねないからだ。
推し友の結婚、妊娠出産、子供の進学といったライフイベントを知ることがある。
わたし自身も昨年子供が生まれた時、タイムラインが賑やかになる大晦日のタイミングを選んでさりげなくご報告した。SNSに顔を出す頻度が変わったとしても、それは推しへの熱が冷めたからではないと知ってほしかったからだ。予想以上にたくさんのお祝いのリプライを頂き、あたたかな気持ちになると同時に、ちょっとほっとしたのを覚えている。
同じ推しを応援し続けている間なら、様々な違いをこえて無条件につながり合える推し友の力。推し活以外の場面でも、お互いの多忙を励まし合ったり、幸せを分かち合ったりする。これをシスターフッドの一種と呼ぶこともできると思う。しかし、推しが引退したり、わたしたちが推しを変えたりすれば、このつながりは脆くも崩れ去る危険性をはらんでいる。
それでもこの極めて脆いシスターフッドを信じてみたくなるのは、シスターフッドを結ぶことの難しさを知っているからだ。
独身時代、妊娠中の先輩のサポートで過労直前まで追い込まれていた頃、社内の育児中の女性全員が敵に見え、「図々しい女性にしか妊娠出産はできない」とまで思いつめた。それどころか、自分自身が結婚し、妊娠出産することにも明るいイメージを持てなくなっていた。本来糾弾されるべきは、人手不足を後輩から先輩への思いやりに頼って乗り切ろうとした会社組織だったにも関わらず。
独身女性と既婚女性が、会社員女性と専業主婦が、正規雇用女性と非正規雇用女性が相容れぬさまは、エンターテイメントとして消費されていはしまいか。しかしわたしたちは、世界に消費される側ではなく、世界を消費する側になり得る。
例え表向きだけだったとしても、数年後には終わっているとしても、わたしたちは今日も手を取り合うのだ。
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