今日もしないこと
子供が母親を求める力は、想像以上に強い。
ひとたび手を差しのべられようものなら、家事、趣味、家族との時間、何もかもを放棄して向きあってやらない限り、子供は満足してくれない。適当にあしらおうとすれば、力の限りに泣き叫ばれる。手に持っている本やスマートフォンを奪われ、放り投げられる。
かつては、この力に社会全体が甘えていたのではないかと思う。母親は、もとい女性は、子供に求められてなんぼでしょう、という。男に求められ、夫に求められ、子供に求められ、義父母に求められて、また夫に求められる人生こそが女性の幸せであった時代。そうした生き方は現代でも完全に否定されるものではないが、歪みが生じている部分もあることは疑い得ない。
しかし、世の中の目はいまだ厳しい。
しつけのために子供を叩いてしまった、泣き止まないので殴ったら死んでしまった、虐待だ、というニュースが、悲しいことに時々流れる。それに対してネットでは、よくもそんな惨いことができたものだ、親はもっと親になったという自覚を持つべきだ、親になるのも免許制にしたらどうか・・・などという紋切り型のコメントがつくのが常だけれど、そもそも、子を持つ親が子供の傍若無人な振る舞いに平気な顔をしていられるほうが、むしろ特異なことだと思う。こう書いているわたしだって、成長してきた子供のワガママや癇癪にうんざりすることが最近増えてきたし、疲れているのにワンオペ育児をしなければならない日などは、もしかしたら今日こそ「このクソガキめ!」と怒鳴ってしまうのではないか、という恐怖にうち震えている。
(「このクソババアが!」などと言われる日もそう遠くはあるまい。その時「言ったな、このクソ子供が!」と返していいのかどうか、ずっと考えている。そしてそのたび、お笑い芸人インディアンスの漫才「反抗期」を思い起こす。)
子供を持つ女性が一人で何かしようとするなら、どうしても周囲の協力が必要になる。家族なり、友人知人なり、福祉なり。リソースが複数あればありがたいが、せめて一つだけでもあればこんなに助かることはない。恐ろしいのはリソースゼロのケース、そして、例えリソースが一つ以上あったとしても、女性が「申し訳なさ」にがんじがらめになってしまうケースだ。
冒頭にも書いたけれど、子供が母親を求める力というのは非常に強い。だから、両者を引き離すには、物理的な意味でもパワーが必要だし、入念な事前準備や心構えも重要になってくる。経験量も物を言う。そして、ある程度は感情を圧し殺してかからなければならない、けれども。
「子供が寝ているうちに出掛けてくれたらよかったのに」
「ほら、そうやってまた抱っこなんかしちゃうから」
今朝方、寝室に物を取りに行ったら、物音で寝ていた子供を起こしてしまい、目が合ってしまった。夕方まで会えない子供の柔らかい身体を、せめて一度だけでも抱っこしておきたい。そういう愚かな思いつきにより、いつものように抱き上げて連れていくと、リビングにいた夫からそうなじられた。
昨晩のうちに寝室から必要なものを取り出しておけば良かったと後悔しても、もう遅い。夫に渡すと、案の定、子供は火がついたように泣き叫び始めた。申し訳ない、夫に対して、と思う。
「パパに代わると子供が泣き叫ぶのは、普段ママのあなたがちゃんとパパ育てしてない証拠ですよ」というような記事を、以前ネットか何かで見た。なるほどな、もっと夫を教育しなきゃいけないんだな、もっと頼らなければな、と思いつつも、一方では全く納得していない自分がいる。
母親になったら、子供だけじゃなく夫の教育まで面倒見なきゃいけねえのかい。ふざけんじゃねえや。
母性、という言葉はあまり使いたくはないけれども、女性は母性があっても、母性を捨てても、結局責められるようにできているのは、どういうことだろう。出掛ける前に子供を抱っこした後、夫に渡して子供が泣き叫べば、夫から責められる。かつての女性活動家のように、婚家ごと子供を捨てても、世の中から後ろ指をさされながら生きてゆくことになる。
いまわたしは電車に揺られている。このまま下りるべき駅で下りず、帰るべき時刻にも家へ帰らず、自分の都合だけで、お金の続く限り、どこまでもどこまでも逃げてゆけたなら、どんなに自由で楽しいことだろう、と思う。しかし、わたしはきっと今日もそれをしないだろう。そうすることによって失うものが、わたしには(まだ)惜しい。