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二十年の時をこえて

おむつ替えおっぱいをやり寝かせ抱く母が私にしてくれたこと/俵万智

俵万智『生まれてバンザイ』

散歩中、ベビーカーで子どもを眠らせ、つかの間の自由時間に開いた本の一ページでこの一首を見付けた時、思わずこみ上げてくるものがあった。そうだよな、わたしが今していることを、三十年以上前、母もまたわたしに対してしてくれていたんだよな。ごく当たり前の気付きではあるけれど、おむつ替え、授乳、寝かしつけ、だっこ…育児がとてもとてもそれだけでは書ききれないほどたくさんの仕事の積み重ねによって成り立っていることを、この短い三十一文字は教えてくれる。

疲れもあるのだろうが、近頃ほろりとしやすい気がする。そして、弱くなったものだ、とも思う。もちろん元々強かった訳ではないし、むしろすぐに心が折れるタイプだけれど、いまは「子供を連れている」というどうにも隠しようのない弱点がある。家族で子供を連れて歩くとき、夫からすればわたしは「怯えすぎ」に見えるらしいが、男性が一緒では見えない景色も、またある。

『生まれてバンザイ』は、歌人の俵万智さんがみずからの子育てをテーマに編んだ短歌集である。今年夏に見かけ、秋になってようやく手に取ることができた。

プリズムのような表紙絵がいい

こんな思い出がある。

国語の教科書に俵さんの「パソコン通信というコミュニケーション」という文章が掲載されていたのは、中学三年生の頃だった。当時流行り始めていたインターネット上でのコミュニケーションの面白さを通じて、どんなツールがあったとしても言葉(日本語)やその使い方には敏感であらねば、とうったえる内容だった。

それを読んだ中学生のわたしは、生意気にも俵さんの文章を批判する作文を書いた。俵さんは危うさにもきちんと触れていたのだが、ネット上のコミュニケーションの面白さを安易に強調するなど言語道断、ネット上で知り合った人と直接会ってトラブルになる可能性をもっと強調しなくていいのか、というようなことを書いた気がする。

するとそれが先生の目にとまり、クラス全員の前で発表されることになった。先生による読み上げが終わると、静かだった教室に「おお…」といういくつもの感嘆の声があふれ、恥ずかしくはありつつも誇らしい気持ちになったのを覚えている。

こうして、いわば俵さんを踏み台にするようなかたちで、物事を批判的に見られるようになったつもりでいた十五歳は、数年後、家族に黙ってインターネットで知り合った人たち(今考えてもいい方ばかりだった)と直接交流したことに対する良心の呵責から、全てを母に打ち明け、彼女たち全員と連絡を断つことになるのだった。

得意気な作文を書き、優等生気分でいたからこそ、良い子から抜け出そうとする自分に自分で「待った」をかけてしまっていたのだと思う。

(この時のことについては↓に書いているので、よろしければご覧ください)

その後、ネットで知り合いを作ることの危うさも楽しさも経験し、あの頃よりは少しだけ大人になれたはずなのだけれど、こんな訳で、俵さんに対しては、作品の短歌も含め、長年特別な、かつ複雑な思いを抱き続けてきた。今後もそれは簡単に変わらないだろう。

でも、中学生の頃ひたすら批判してしまった俵さんの作品に、約二十年の時がたった今、強く心動かされたという事実は、今後わたしの大切な一部になってゆく気がしてならない。言葉に関わり続ける者同士、という意味でも。

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優木ごまヲ/カクエキテイシヤ
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