映画「世界で一番美しい少年」について(引き続きワーキャーを考える)
※この記事は映画「ベニスに死す」および「世界で一番美しい少年」の若干のネタバレを含みます。
つい先日、2021年公開のスウェーデン・ドキュメンタリー映画「世界で一番美しい少年」(クリスティーナ・リンドストロム、クリスティアン・ペトリ両監督)を見てきた。
ドキュメンタリーの主人公はビョルン・アンドレセン。
2022年現在、67歳。
十代の頃、1971年公開のイタリア・フランス映画「ベニスに死す」(ルキノ・ヴィスコンティ監督)に出演し、美少年タジオ役を演じたことで一躍有名になった俳優である。
「ベニスに死す」は、トーマス・マンの小説を原作に、年老いた作曲家が静養のため訪れたイタリア・ベニスで金髪の美少年タジオに惹かれ、その美に魅了される中で感染症のため死んでゆくという物語だ。
過去の記録をひっくり返してみたところ、12年前、ちょうど学生の頃にDVDを購入して「ベニスに死す」を鑑賞していた。
どのような経緯で知ったのかはもう忘れてしまったが、ビョルン・アンドレセンの美貌に惹かれての鑑賞だったことはまず間違いない。
感想もほぼアンドレセンの美しさに終始しているが、年老いた作曲家が美少年を追いかけるという滑稽さに加えて、作曲家の風貌が以前通っていた学習塾の先生に似ており、しかもあまり楽しい思い出がないため、ドキュメンタリー鑑賞前に「ベニスに死す」を復習した時も「なんとなく居心地が悪く気持ちの悪い作品」という感想が残り続けていた。
(映画およびドキュメンタリーの内容とは一切関係がなく、全くの余談だが、この学習塾の先生についての思い出はピン芸人のZAZYさんが語ったところの少年時代と通じている。)
当時から感じ続けていた「気持ち悪さ」がそのためだと言うつもりはないが、ドキュメンタリー「世界で一番美しい少年」を見ると、少年時代のアンドレセンが「ベニスに死す」撮影前から撮影後に至るまで、ヴィスコンティ監督をはじめとする周囲によって、ひいては社会によって、いかにその「見た目」のみでいたずらに、無遠慮に消費され、内面を無視されてきたかが、数々の戸惑いや苦悩と共に描かれている。
本当は音楽家になりたかったという、たまたま美しく生まれついただけの少年が、彼を表舞台に連れ出したヴィスコンティ監督その人によって「年齢を重ね美貌が衰えた」と公衆の面前で嘲笑され、性的虐待にさらされたという事実は、あまりにも痛々しい。
しかも、1970年代の日本はアンドレセンの外見の無責任な消費に大いに荷担している。
「ベニスに死す」日本公開によって美少年タジオ人気は高まり、1971年、1972年のアンドレセン来日時には、日本人女性たちが熱狂的に彼を迎えた。
CM出演、TV番組出演、レコードデビュー……
彼の美少年イメージだけが重要であったことをいやというほど見せつけてくる映像の数々には恥ずかしさを覚える。
(なおジャニーズ事務所からデビューした郷ひろみが「男の子女の子」でレコード大賞を受賞したのも1972年である。)
ドキュメンタリーでは当時を知る日本人も出演しインタビューに答えている。
「アンドレセンの内面もきちんと見ていた」と語る日本人もいるが、同時に「外国人が珍しかった」「光と影をあわせもつイメージがよかった」「かわいそうと思う余裕などなかった」と語る日本人もおり、当時の日本には、アンドレセンの内面を慮る土壌など、そもそも用意されてすらいなかったことが突きつけられる。
ドキュメンタリーは、60代後半となったアンドレセンの姿を、あくまでも冷静な目でとらえてゆく。
黒いサングラスに長い白髪をなびかせるアンドレセン。
ヴィスコンティ監督が存命であれば目を背けるのかもしれないが、もしそうだとしてもクソくらえ、だ。
おじいちゃんアンドレセンのビジュアルは文句なしにめちゃくちゃかっこいい。
しかし、かっこいいアンドレセンばかりが捉えられる訳ではない。
だらしない「汚部屋」を若い恋人に掃除されて言い訳をしたり、はまたまその恋人から「汚い豚」と罵倒されて別れを告げられたり。
辛い生い立ちや、母との別れ、母の死とその真相、我が子の死との対峙の様子も、余すところなく描かれる。
さて、「世界で一番美しい少年」を見終えて「外見しか見ず本質を見ないことの愚かさ」という一テーマが浮かび上がってくる訳だが、これは私が最近注目しているところの、女性お笑いファンを男性お笑い芸人の外見にしか注目していないとして糾弾する「ワーキャー」問題についても通じるところがある。
かつてアンドレセンが美少年という外見のみを消費され、しかもそこに日本の、そして日本の若い女性たちが荷担していたことは、ともすれば「やはりワーキャー(ミーハー)は恥だ」「やはりワーキャーは本質(芸そのもの)を見ていない」「コアなファンしか本質は見抜けない」という論調を後押しするものとして捉えられかねない。
また芸人さん本人たちからも「外見ではなく芸を見て」という発言があったと聞くことがあるし、応援していた芸人さんから「女性ファンは要らない」という発言があって傷ついてしまう女性ファンもいると聞く。
加えて、若き日のアンドレセンが自身の美しさを褒め称えられて戸惑ったと語っている様子は、短期間にスターダムを駆け上がった芸人さんたちが「かわいい」「かっこいい」と言われるようになって「実感がわかない」「かわいくもかっこよくもないのに」と困惑する様子と通ずるものがある。
こうしたワーキャー批判があった時、ワーキャーとされた側からは「外見だけで判断している訳ではない!ちゃんと芸も見ているし本質としての面白さがわかっている!」という反論の声が上がる。
しかし、ワーキャーを批判する側にしても、批判される側にしても、自分が本質を見抜けていると思っている(もしくは思いたい)ことの傲慢さ、ひいては、自分自身が囚われているものの正体すら見抜けていない可能性については、なるべく自覚的である必要があるのではないだろうか。
そもそも「本質」というものの存在すら、危ういのではあるが。
例えば、芸人さんの中にも「ワーキャー言われたい」「ワーキャー言われたいと思っていた」と語る人は少なからずいる。
また、ワーキャー批判をする側には「女性は全員かっこいい人が好きにちがいない」、「かっこよくない人を好きになるのは他人と違うワタシを演出したいからだろう」という偏見があるし、まさに「あばたもえくぼ」で、かっこいいかわいいと言われ続けることによって「一皮むける」「垢抜ける」ことの威力が伝わっていないかもしれない。
「外見がかっこいいから」という理由でその人を色眼鏡で見るケースもあるだろう。
そして、ワーキャー批判をされる側にもまた、外見だけで好きになった訳ではないことを強調し、反論したいあまりに、ファンコミュニティに遠慮して「実は芸のほうはあまり面白いと思っていない」「芸が面白い芸人さんは別にいると思っている」と言えない空気に縛られている部分があるように思う。
外見とは。「本質」とは。
普段映画を見ないという方も、是非触れて欲しい映画たちである。
そしてもし興味を持っていただけたら、この二本に続けて「ミッドサマー」のアンドレセンの役どころも見てみて欲しい。
(ただし非常に残酷なシーンを多く含む映画のため注意が必要だ)