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水面下で
2024年になって早くも半月が経つ。
日記にも書いてきた通り、先週は怒涛の一週間だった。
夜中に子供が何度も嘔吐して救急外来へ。便秘が原因と思われたが、翌日には下痢をして小児科へ連れていった。
その夜、今度は夫が激しい腹痛と嘔吐、悪寒に見舞われ、数日間身動きがとれなくなった。
二人とも胃腸炎との診断で、夫のほうはウイルス性の可能性があると告げられたようだ。
二人暮らしだった頃なら、ただ夫の心配だけをしていればよかった。
しかし今は子供がいる。しかも子供も体調を崩していて、いつもと同じ食事は取れないし、薬は飲ませなければならないし、おまけにちょっぴりご機嫌斜め。
ゲロゲロ嘔吐している夫のほうへ行かないよう、反り返って泣く子供を抱きかかえていた時は、やべ、これちょっとした地獄だな、と思っていた。
しかも、わたしたち家族はIターンの地方移住者。地縁がない。近所に頼れる親族がいない。長い付き合いの友人知人もいない。
これが「詰み」というやつか。
寝込んでいる夫にスポーツドリンクを作る。夫に時々声をかける。洗濯物を干し、皿洗いをする。夫のスマホやメガネで遊ぼうとする子供からそれらを取り上げ、枕元に戻す。子供がかんしゃくを起こす。子供がまたお腹を下す。マスクと手袋をして処理する。子供のご飯を作り整腸剤を混ぜる。食べさせる。適当に自分の食事を取る。夫の部屋を覗く。もうすぐ十キロになろうかという子供を抱っこ紐に入れ、コンビニへ経口補水液を探しに行く。外は雨。傘を差す。小児科でも薬局でも、何度も「お母さん、お母さん」と呼ばれたことを思い出す。
度量が狭いと言われるかもしれない。でも、わたしは忘れない。自分が「つらい」となかなか言えない性分だということを。「つらい」と言えずにかつて倒れたことを。
配偶者というだけで、母親というだけで、当然のように「無償でケアを提供しなければならない側」になってしまったことが、とにかくつらくてたまらなかった。もう少しで頭が爆発してしまいそうだった。
コンビニで自分のためだけのプリンを買って食べたことが、どれだけ癒しになったか。
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幸い、頭が爆発する前に実家から両親が駆けつけてくれた。
この春、移住から四年目を迎える。
新しい土地でも新しい友人や知人はできた。
夫も同じだろう。頻繁に連絡を取り合っている地元の方もいるようだし。
しかし、ひどいことを言うようだけれど(しかも、これを読んで下さっている方もいるかもしれないけれど)、家族が体調を崩した時、もしかしたら迷惑をかけるかもしれない、それでも「助けてください」と遠慮なく言える間柄になった人は、まだいない。
(夫は同じ用事に行く知り合いを車に乗せるなど度々便宜を図っているようだが、そのお相手からいざという時に同じサポートをしてもらえるとは到底思えない。夫が「○○さんは○○だからそんなこと頼めないよ」と言うのを聞くと『こちらは何度もこういうことをしてあげてるはずなのに、こちらが困った時は全く助けてもらえないなんて、どういうこと?』と言いたくなる。)
一番頼りになるのは遠方に暮らす親族ということになってしまう。ただしその親族もあと十年ほどすれば七十代、八十代を迎える。その時、もし今回と同じように一家総崩れの危険が迫ったら、一体誰に助けを求めればよいのか…
流行りの自己責任、なのですかね。
それはさておき。
だからいざという時の保険として、これから積極的に人付き合いをしてゆく、というのも、あまりにも打算的で嫌な感じがする。自分の行動の全てが見返り欲しさゆえのものなんじゃないか、と思えてくる。
地方だったとしても都市部ではほとんどあり得ないだろうが、田舎の濃密なおせっかい文化が自分の性に合っているとも思えないし。
だとしても…ということなのだろうか。全く見返りを気にしていないなんて嘘だし、あるいは、気を遣い気を遣われるなんて本当は面倒くさいけれど、それでもいざという時支え合うために、人は人付き合いというものをするのだろうか。
亡くなった父方の祖母が、近所に食品などを配って、それがちょっと良い食べ物などになって返されてくると喜んでいたのを、冷ややかな目で見る人もいた。
でも今思えば、あれは本当は食べ物がグレードアップして返ってくるかどうかなどはどうでもよくて、その土地で、限られた人間関係の中でスムーズに暮らしてゆくための知恵のひとつだったのかもしれない。
送る側も、送られる側も、暗にお互いを探り探られながら、コミュニケーションを取って繋がっておく、という。
公助に期待できない今、自助できるか、個人同士の繋がりを持っているかどうかが運命の分かれ目になっている。
しかし、自助できず、個人同士の繋がりからも漏れている人は確実に存在する。
加えて、一見問題なく自助できていそうな人、個人同士の繋がりがあるかに見える人も、実は苦しんでいたり、バランスを崩しあっという間に社会のエアポケットへ落ち込んでしまったりする可能性も、十分にある。
無償のケア。
相互の助け合い。
どちらも美しいもののように見えるけれど、水面下では懸命に足を動かしている。
目の前にいる人も、もしかしたら…という想像力が必要だろう。
すぐに答えなんて出ないだろうけれど、私自身も、水面下で足を動かしてゆくしかない。様々な足の動かし方を模索しながら。
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