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湖のさざなみ~坂本龍一さん追悼

坂本龍一さんが亡くなってしまった。坂本さんの作った音楽には子供の頃から大いに影響を受け、親しむようになった。思い入れもあるから、各作品についてゆっくり振りかえる時間を持ちたいのだけれど、今日はその「思い入れ」について考えてみる。


実は、坂本さんの音楽がきっかけで、学生時代にとある大きな選択をした。その選択をしなかったら出会わなかった人や物も多いのではないかと思う。「坂本さんの音楽があったからこそ自分は今ここにいる」…それを聞いた恩師はこう言った。


「坂本龍一本人はそんなこと知るよしもないだろうねえ」


短い付き合いながらシニカルな物言いをする先生だと知ってはいたものの、ギョッとした。思い入れについて語られたら「この人はそんなにこれが好きなんだ」と微笑ましく見守るのが普通だと思っていたからだ。

しかし、先生のこの一言は現在に至るまでたびたび思い出され、思索の世界をもたらしてくれている。


ちなみに先生は…別のクラスではあったが、坂本さんとは高校の同級生に当たり、話したこともあるそうで「坂本クンはよく本を読んでいたなあ」と懐かしそうにしていた。そんな先生の一言でなければもっとカチンときていたのではないかと思う。


どんなに思い入れを持とうと、坂本さん本人は知る由もない…確かにその通りではあった。もちろん、ファンからの声援や「投資」が製作の後押しとなったであろうことは推測できる。だとしても、坂本さんを応援していた人はたくさん居るのであり、わたしなどのちっぽけな人生が変わらなくても、もっと言えば、わたしなどがファンにならなくても、坂本さんは坂本さんだっただろうし、その人気は別の誰かが支えていただろう。


音楽家だろうと、俳優だろうと、お笑い芸人だろうと、誰のファンでいようとも、何かしらの思い入れは生まれるものだ。辛かった時に元気付けてくれた、嫌なことを忘れられた、人生が変わったなど…応援する時間が長くなればなるほど、乗り越えたものが大きければ大きいほど、思い入れはより強くなってゆく。

一方で、肥大化した思い入れは凶器にもなりうる。対象が理想の動きをしてくれなかった時、向き合いたくないものに向き合わせようとしてきた時、不祥事を起こした時、かつてのファンは百科事典のような分厚さになったそれを振りかざし、対象に殴りかかることさえある。


思い入れとは強い自己愛のことなのだと、昔どこかで読んだような気がする。思い入れとはつまり対象への愛着を介した自己肯定。だとすれば、わたしは坂本さんや坂本さんの作品以上に、それらをきっかけに大きな選択をした自分自身を肯定したかったのかもしれない。


拙いながら、わたしも作り出す側の人間である。自主制作のZINEやフリーペーパーを手にとってくださり、良かった、面白かったと言っていただけることは何よりの喜びだ。仮に明確な反応がなかったとしても、わたしの預かり知らないところで、なるほどね、これはすごいねと言ってくださる方が、どうやら少なからずいるようだということも最近分かってきて、嬉しく思っている。


一方で、あまり魅力を感じなかったという方もいらっしゃるだろうし、もしかしたら世に送り出した作品のいくつかは、既に灰や煙となってこの世を旅立っているかもしれないと、時々考えることがある。


逆に、とてつもなく魅力を感じてくださり熱烈なファンになっていただけるとしたらありがたいことなのだけれど、仮に「人生を変えてしまうほどの影響を受けた」と言われたら、本当にわたしなんかで良かったのかしらという気がしそうだ。現に、わたしの作品を読んで自分でもやってみたけれど向いていなかった、とおっしゃる方もおられ、もし入り口がわたしでなかったら続けていらしたのでは…と申し訳なく思うようなこともある。


覚悟、とまではいかないが、何かを作り出すということは誰かの思い入れにつながるかもしれないのだと、常に念頭に置いておきたい。


豊かな水をたたえた湖の真ん中に小島があり、坂本さんは今もそこで静かにピアノを奏でている。ピアノが鳴るたび湖面にさざなみが立って、湖のまわりのわたしたちの心を揺らす。拍手をすれば、パチパチという音がさざなみとなって再び湖を渡っていく。中にはボートを出して渡っていこうとする人もいるけれど、小島には昔も今も来客用の桟橋がついていない…思い入れについて、そんなイメージが浮かんでいる。

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