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ゴルファーからスポーツ用品業界の人事採用担当にキャリアチェンジした話


ゴルフを始めたのが12歳、夢はプロゴルファー。


12歳だったころ、初めて父親に練習場に連れてってもらったことがゴルフを始めたきっかけだった。
それまではずっとバスケとサッカーをやってきた私には初めての個人競技だった。バスケとサッカーをやってる時はどこか、自分だけが活躍したい気持ちや、目立ちたい気持ちがあったのかもしれない。自分の力で何か大きい目標を達成してみたい。とりあえず「やってみよう」の軽い気持ちで打ちっぱなしへ。
初めての打ちっぱなしということもあって、ボールには全く当たらなかった。面白いぐらい当たらなっかたど、なぜか20球中一球当たるあの一発があるからこそ、楽しかった。

ゴルフはその一回でハマったわけではない。
でも行けば行くほど、ボールに当たる確率が上がっていったのは確か。その当たる一回がとてつもなく気持ちい打球になってきた。
そこから楽しくなった。正式にレッスンを受け始めることになり、ゴルフ漬けの毎日になるまでは時間がかからなかった。

アメリカに行きたいと強く思ったきっかけ

ゴルフを始めて3年が経ち、当時世界ナンバーワンだった選手がアメリカのコーチを台湾に連れてきて、ジュニア向けの合宿に参加した時だった。今まで教わってきた方法と全く違うアプローチで、その差にすごい衝撃を受けた。コースでの考え方、練習してる最中での考え方、上達するために作る練習プランの考え方。今まで教われた方法と面白いぐらい違ったのである意味新しい発見でもあり、私はこのまま台湾にいていいのか?と考えるきっかけにもなった。

合宿中のラウンドで長いパーパットが入り、ヤニツェンとハイタッチ

もう一度アメリカ人コーチのレッスンを体験したく、次の年の夏休みにフロリダにある当時Bishops Gate Golf Academyの(現在IJGA)サマーゴルフキャンプに参加。ここで会ったのが、後ほどずっとお世話になるコーチ、スコット。スコットと出会って、短い夏休みのプログラムの中でもスイングを徹底的に改造。面白いなと思ったこととしては、今まで注目されてなかったスイングの一部分について褒められたこと。結構褒められたのがびっくり。良いところをもっと活かせるようにスイングを少しずつ変えていった。3週間という短いスパンだったが、私にはここしかないと強く思えるほど、強烈で濃厚な3週間だった。BGGAでは現地の学校との連携もあり、朝は授業で午後はゴルフという、私にとって夢のような場所でもあった。今までいた環境でのレベルが高いとは思えず、迷わず両親に相談し、土下座して行かせてくれと頼み込んだ。行かせてくれるとは思わなかったので、OKが出た時はすごく嬉しかった。
高校の1年目は受講し終えたので、高校2年生で転校。初めて実家を出ることに。

高校時代、フロリダでの試合の様子。表情は厳しい。

16歳で家を出て、そこから2年フロリダで過ごし、無事卒業。大学も決まり、1年目はヒューストン大学。スポーツ推薦で大学に入るためにやったことはこちらの記事で紹介:

ただ不運なことに、高校時代の書類が大学のスポーツ協会では通じず、チーム内での予選を通過し試合に出れる権利を得られても試合自体には出れなかった。試合に出れるはずなのに出れないもどかしさがとてつもなく強く、1年目で出れた試合はたったの2試合。環境を変えるという意味で転向を決意し、オハイオ州立大学に入ることになった。ヒューストンと違って、オハイオはものすごく寒い。一番南の街から一気に北へ上がったので、ゴルフ場の雰囲気、セッティング、戦う気候が全く違う。そして新しいチームでのスタートも重なり、不安がいっぱいだった。

真冬のオハイオで作る雪だるま

いざ始めるとヒューストンでの経験とは真逆で、最初のシーズンは全ての試合に出れて、たくさんの経験をさせてもらえた。行ったことない国、行ったことない街、たくさんの場所でゴルフをさせてもらえた。1年目がとにかくボロボロだったので、それを取り返すべく、死ぬ気で、本気で、レギュラーの座を勝ち取りに行った。チームでは唯一のアジア人だがそんなものは関係ない。私の居場所を証明するかのように、1年目との成績は驚くほど違った。この頃はプロになりたい意欲がとにかく強かった。2年目を終え、3年目も終え、4年目を迎えた時にコロナ禍に入ってしまった。コロナ禍ということもあり、試合も全て中止され、私はアメリカを離れて日本でプロに挑戦することにした。


大学時代一番の思い出。チームで勝ち取ったBig 10 Conference

好きだったゴルフが徐々に苦しくなっていった

日本に戻ったとはいえ、実際日本で生活した記憶は全くない。生まれは確かに日本だが、3歳からずっと台湾にいた私にとって日本での生活は初めてのもでとにかく新鮮だった。帰ってきた当初、日本語が下手だね、と結構言われた。アメリカでのイントネーションがかなり強いみたい。今もそのイントネーションは抜けてないけど全く気にしてない。日本に戻り、家の近くとはいえないけど1時間離れたところで研修生生活をさせてもらえた。車で往復2時間の距離をほぼ毎日。週1の休みもしくは休みがない日々が多かった。研修生として、クラブでのサポートそしてキャディすることもザラ。練習の時間はしっかり確保しないといけなかったので、結構早めにゴルフ場に行ってた。

研修生時代。朝4時半に起きて、お客さんが来ない時間にラウンド。午前6時すぎ。

色々とかなり大変だったけど、プロテストに挑戦。自分の中ではできる限りの準備をしたのにもかかわらず、2次予選で落ちた。言葉にできないぐらいショックだった。家に帰るまでの車の中で涙が止まらず、私の十年間はなんだったのかと問い続けてた。その日から研修生生活は続けてたけど、酒を浴びるほど飲み、飲まないと寝れなかった。家族や友人の連絡はずっと断ち切ってた。誰とも話したくなかった期間が続いた。悔しさではなく、家族に会う顔がない罪悪感がとてつもなく強かった。罪悪感があるからこそ、苦しめられてた。

ただただ辛くて、毎晩煽るように飲んでいた。ウクレレの曲を聴きながら。

プロテストから三週間が経ち、正式にゴルフをやめることにした。プロテストで自分の実力の足りなささ、何よりもう一度テストのためにあれだけの準備をしてまでゴルフをしたいか?と自分に聞いたらはっきりNOだった。研修生を辞めて、バイトしながら就活することに。この時23歳。語学を使える仕事を探すことにした。

ゴルフ以外知らなかった世界へ飛び込む


仕事とはいえ、そう簡単に探せるわけではなく、かなり苦労した。最初、何を仕事にしたいのかが全く分からなかったので、興味がある仕事にばかり応募した。いくつか面接に入ったけどそれ以上進むことはなかった。当時、自分の経歴は第二新卒枠で何かしらの仕事が引っかかるだろう、と思ってたのもあり、なぜこんなにも進まないのか?途方に暮れてた自分がいた。そんな中、元々スポーツをやってたこともあってかなり興味があったランニングシューズの会社での書類選考不可の通知が来た。経験は問わないような求人票の書き方だったので、なぜ不合格か、そして第二新卒枠は違うポジションでもないのか、と丁寧にメールを返したらなんと返事がきた。第2新卒枠とかはないけど、未経験でもできそうな業務があるとのことだったので一度カジュアル面談をすることになった。カジュアル面談ではかなり緊張したけど、色々ざっくばらんに話せた。意外にも、次の面接に進むことになった。めちゃくちゃ嬉しかった。次の面接では部門のヘッドで、同じ帰国子女だったので話がとてもあった。話せば話すほど会社やポジションにとても興味を持った。そのまま最終面接に進むことになり、本社へ行った。本社の面接は手応えがあったのでいい結果をかなり期待してた。本社での面接の一週間後、不採用通知が届いた。

かなり、ショックだった。たくさんの時間や労力をかけた面接でもあったので、このショックから立ち直るには少し時間がたった。このとき、会社はどの基準で何を見て選考に進むか落とすかを見るんだろう?とふと思った。その会社に合う人材ってどう探すのだろう?という観点から、リクルーターという職業に興味を持った。

リクルーターという仕事を調べると、エージェントでの採用ページがちらほらと出てくる。そこで思い切って応募したのが前職。バイリンガル人材の採用を強みにもつ人材紹介会社。あと2社同じような外資系人材紹介会社に応募したが、1社は音沙汰なし、もう1社は面接中かなり圧迫な質問をしてきたりとにかく印象が鬼悪かったので自ら辞退。向こうからしても不合格だったみたいのでちょうど良かった。内定をいただいた会社に入社することになった。

初めての「仕事」


私はエージェントのお仕事を採用する仕事と捉えてたので、入ってからエージェントは「営業」の仕事だと知った。入社してすぐ、知らない人に電話して最近の状況を聞いたり、メールをしたり、とにかく「え?これがエージェントの仕事なの?」と思うようなことばかり。知らない人にいきなり電話するのは最初かなり抵抗があったし、電話でなかなか思うように喋れないので、怒られたりすることもあった。メールも、社会人として初めて打つものであって、丁寧なメールをGoogleで検索してから色々試してやってた。メールはまだ良しとして、電話が一番嫌いな時間だった。ただやればやるほど慣れてくるのは確かで、入社三ヶ月を過ぎたら電話する時間はコールセンターになりきって電話できるようになった。できるようになったとはいえ、電話はやっぱり嫌だった。。

最初の研修期間も終えたので、自分のクライアントを持つことになった。クライアントは知ってるブランドが多かったので、声がけもやりやすかったし会社の名前を言うとすぐにわかってくれるような会社が多かった。その会社の人事と話せるのが楽しかった。次第に、担当できるクライアントが増えて、自分が一番興味のあったリテール業界をメインに担当することになった。元々ゴルファーだったと言うこともあり、上司は必然的にスポーツやアパレル関連の会社の人事に繋いでくれてた。繋がるとき、スポーツをやってたと伝えると、結構顔が明るくなるので意外と話せてた。自分の中では、会社の訪問や取引先とのランチが一番楽しかった。楽しかった一面はありながら、苦しいところもあるのが「営業」。人材紹介会社の営業はクライアント先に候補者を推薦すると言うこともあり、候補者がその会社へ転職を決めてくれないとビジネスが成り立たない。よって、人の選択肢を動かす影響力のある仕事でもある。転職という、大きなチャレンジの後押しをする人でもある。この2点をかなり重く捉えてしまったので、支援した候補者が紹介先で不満を持ちながら仕事してる話を聞くとかなり辛かった。どうしたら楽しく働けるかどうかを考えてはいたが、私は候補者の愚痴を聞くこと以外できることは正直ない。そういう悶々とする日々が増えて行った。あまり評判が良くない会社に候補者を紹介したくないし、お金のために紹介することがどうしてもできなかった。
私はたくさんの企業への紹介というよりかは、本気で好きになれる会社を1社だけでもいいから心の底から推したい、と強く思うようになった。その気持ちは次第に強くなり、今の会社はもう十分かな、と考えるようになった。ちょうど2年を迎える頃に辞める決断をし、やめようと思ったタイミングでは新しい仕事は見つかってなかった。今すぐにまた違う仕事というよりかは、どっか旅に出るのもいいかなと思ってた。まぁなんとかなるだろうと思ってた。
そんな時に、担当してたクライアントから声がかかった。ほんと奇跡というか、なんてタイミングがいいのか。ちょうど新しいメンバーを探すことになったので、声かけてくれた。それが今働いてる外資スポーツ用品メーカー。
とてもありがたいことに声をかけていただいて、そのあとは面接に進んで内定を頂けた。ゴルフはやめたけど、心のどこかでスポーツ業界に戻りたかった自分がいたので、入社することを決めた。そもそも断る理由もないし、ご縁があってこその内定なので、ここは行くべきだと思った。

ゴルフを辞めた後の「今」


長くなったけど私はこうしてゴルファーから企業の採用担当となった。
入社してもうすぐ七ヶ月目、まだまだいろんなことを学び続けてる。
最近はずっと気になってたキャリアコンサルタントの養成講座に通っている。毎週の土曜日、朝9時半から18時半までみっちり、びっしりと。
正直に言うと週5の勤務あのあとに+1日で講習はかなりキツい。
キツいけどこれはこれで新しいことを学べてるので結構楽しい。ロープレは大嫌いだけどしっかりロープレをやるコースにしてみっちり鍛えてる。
来週のレッスンで第6回。12回の講座なのであと半分。
終えたら国家資格を取るための試験。目標は一発合格!取れたら今後のキャリアの武器になれる。学び終わったら、また次の目標が出てくる。。繰り返したら、立派な人事になれるといいなぁ、と思ってる。
キャリアコンサルタントの資格を取ったら、もし興味がある方いれば面談を実施していきたいと考えている。この資格の次はコーチングを勉強したいと考えている。もっと、もっと、パワフルかつ影響力のある時間を提供できる人間になりたい。

ゴルファーから人事、キャリアは変わったが、物事の考え方はあまり変わってない。常に挑戦し続け、常に学ぶ選択肢はいつまでもとりたいと考えている。

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