何かを伝えるということ

自分の心に嘘ついていい人ぶったりしていたから、なんとなく表面の会話だけ、あんまり深く人と関わってこなかった。

自分の心に徐々に嘘をつかなくなった今、いいたいことを言うようにもなってきた。

でも、何かを伝えるとか自分の意見を言ったりがなかなかまだうまくできない。自分の気持ちやしたいことを伝える訓練が圧倒的に足りない。言い方がみつからなくて、ニュアンスが異なったり、ちょっと熱が入りすぎて空気が読めなくなったり、ここのところうまくいかない。

多分うまくいかないのは、私が何かを変えないといけないのだろうけど、まだその何かはわかっていない。うまくいかないときは自分の中に問題がある。

私には伝えたいことがある。

私はいつも社会問題であるとか社会を生きてきて、これってこの先どうなってしまうんだろう?というものに遭遇したとき、どうにかならないだろうか、なんとかできないかといつも考える。そういうとき、私だったらできることとは、と考えると何で表現するかはいろいろだけれども。社会問題そのものや、あとは社会問題を助長させるような社会の流れ、さまざまな視点での考え方とかを伝えていくことだといつも落ち着く。

だから、勇気を出して、伝えていくことの一歩を踏み出した。その社会問題自体を知ってもらう、社会問題に多く関心を持って気づいてもらえたりとか、社会課題を解決することを考えたときに、その人がその人らしくとらわれずに自分の人生を生きているということが必要ではないかと思っていて、そのためにはたくさんの事例や選択肢を知ることが重要だとも思っている。

人生を生きる上でさまざまな選択肢や事例を知っておくと楽になるし、こういう選択肢もあったんだ!という道筋が開ける。私も今まで知ることをしてきて、実感している。

まとまってないし、わかりづらい文章になってきたかもしれない。

なんでそんなことをしようと思うか。社会問題をいくつか知るなかで、そこで犠牲になっている人を知ったからだ。その人たちを犠牲にしてまでやる必要がどこにあるのか? 犠牲になっている人の上に立ってまでそれを欲せない。

というかその人たちを犠牲にさせたのは、結局は企業や国に無言でそれを許させた自分に他ならない、今まで何も知ろうとせずに生きてきて無関心でいたからだ。だからせめて、無関心はやめて、関わっていこうと思った。

確かに便利にしてくれたその恩恵はとても受けていて、それは認めていきたい。認めているからこそ、受け入れて、便利になりすぎて生じたしわ寄せを共にどうにかできないかと思う。

でも私はちっぽけな人間であり、実際動き出したことで変わることなんてほとんどないかもしれない。というかそもそも人生は自分で決めているようでいてほとんどがもう既に決まっている、自分で選択しているのは幻想だという考えもある。自分がそれをやったからと言って、無意味で結局は変わることのない世界なら、何もわざわざ何かをしなくていいんじゃないかということもよく考える。

何もせずにただストレスなく、本や映画に触れ、ライブに行くとか自分の好きなことや普通に仕事を過ごしているだけでも十分なんじゃないかともよく思う。

いつも自問自答だ。

そもそも世の中にある会社とかいろんな活動とは本当に生きるためのものではなく、大きな暇つぶし以外の何物でもないとも常々思うから。それも元京大ニートのphaさんの本とか、ホリエモンさんの本とかで影響を受けてきて思うことだ。

そういう発想のもとにいれば、今働いている会社の中でやっていることも空虚に思えたり、なきゃないで世の中は成り立つものなんだ。

だからこそ、逆の発想をすると、暇つぶしでいろんなものはなくてもいい世の中であるなら、自分の好きな楽しいって思えることをする方が得だということ。

その方がストレスもないし。そういうことを普段から悶々と考えて、意味があるかどうかもこれをやって正しいかどうかもわからないけど、私はやるのだ。

それは、最終的には自分がよりよく暮らすということのためなんだと思うし、実際にその為の活動をすることを決心し実際に動くということが自分の中で楽しい活動だったりする。

だから動きだせる。あとひとつ、意味があるかどうかのことについてしっくりきたのが、沖縄のドキュメンタリー映画監督の言葉。沖縄の人は地縁が強く世代の結びつきがある。今のおじい、おばあが座り込みをしているのは後が少ない自分たちのことというより次世代の人たちが生きやすいようにという思いがあるみたいだ。ああ、それでいうなら意味があるかもしれないな。それでやってみてもいいのだろうと腑に落ちた。半径100mとかもっと小さくてもいいけど、自分のまわりにいる人たちが生きやすくなってくれることがあるなら、やっても大丈夫なのかもしれないと思う。

で、冒頭のことに戻るけど、そういう思いで動き出しているけど、誰かが何か言ったとしても、人っていうのは変わるものではない。勝手に自分で実感して、自分で勝手に気づいたときに変わるんだろう。変わらなければならないものでもないしそれを強制するのはやはり傲慢で。その前提に立っていようとするはずなのに、無意識に誰かが変わることを求めてしまうのだろう。押しつけのようになったときにやはりうまくいかない。

難しい。

何かを人に伝えていく、知ってもらうということはそれなりに熱量を持って伝えていく必要があるけど、熱を持ちすぎて変になると強制っぽくなる。

どうしたら、よいのか。

話すのも得意じゃなかったし、トライ&エラーでいくしかないけど、拒絶されたりとかうまくいかないことも今後も出てくるのかもしれない。自分が話すよりも相手の心をまず聞いてみるべきだったのかもしれない。背景を見れるようになりたい。

拒絶されれば、挫けそうにもなるし、なんでやるんだろうと堂々巡りにもなる。既に活動家などで活動している人たちやいろんな人に影響を与えている人、そういう人たちのやり方や事例を見に行ったり、感じたりすればヒントになるのかもしれない。伝えたいものが人に伝えられるような魅力を築きあげるしかないのかもしれない。

まったくまとまりがなく、言いたいことはやはり伝えきれない。自分の言葉でしたいこと、伝えたいことを伝えるには、まだまだ時間がかかりそうだ。

もうただの戯言になっているけれど、なんか書きたかったのです。失礼しました。


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