イスラム・古代~中世 その2
3.対等が根本思想
意外に聞こえるかもしれませんが、ムハンマドが元々商人であり、最初に信徒に取り込んだ人々の多くが商人であったからでしょうか、7世紀にこれだけ不平等さをなくそうとする努力は目を見張るものがあります。
そうした見方ができる第一の理由として、キリスト教徒、仏教徒のような複雑なモスク組織を作らなかったことがあります。総本山的なモスクや教皇のような導師が存在するわけでなく、またモスクに定住型導師(イマーム)がいるわけではないことが非常に興味深いです。ムハンマドがムスリム社会を統治していた時代がある程度あったからでしょうか、ムハンマドがモスク間、あるいはイマーム間に順序や階層を作らなかった先例を今日まで受け継
いでいます。(イランのホメイニ導師についてはまた後日触れたいと思います)
次に、非アラブ信徒も割合すんなりとアラブ人と同等に受け入れています。江戸っ子ではないですが、三代続けばアラブ人と同様に見なされたといいます。当時の背景には、二代目、三代目カリフ時代(ムハンマドの後継指導者たち)によるペルシャ帝国と東ローマ帝国の大部分を征服した大征服時代、アラブ人よりも被支配者たちの社会の方が格段に成熟していたため、身内からの利害衝突を招くことなく、実用的に能力のある人々や民族を登用、活用
していきました。例えば、書記にはペルシャ人、会計士にはユダヤ人というように。(モンゴル帝国の人材活用方法に通じるものがありますね)
イスラムはアラブ発祥とはいえ、周囲の多民族の文化を取り込んだ、ハイブリッド的文化、文明とも呼ばれます。(この点は近代に問題になりますので、覚えておいてください)イスラム最初の国家であるウマイヤ朝はまだアラブ人が支配者として君臨していましたが、それでもアラビア半島よりも豊かなダマスカスに首都を置きました。その後の目ぼしいイスラム王朝たちも首都をアラブの地の外に築いた結果、文化、政治の中心から徐々にアラブは
離れていきます。例えば、アッバース朝はバグダッド(現イラク)、ファティーマ朝はカイロ(現エジプト)、後ウマイヤ朝はコルドバ(現スペイン)、ササン朝ペルシャはイスファハン(現イラン)、オスマン帝国はイスタンブール(現トルコ)にそれぞれ首都を置きました。
その結果、人類史へのイスラムの最大の貢献の一つは、ギリシャ・ローマ等の東地中海文明を継承し、学問を発展させました。まずアッバース朝では、首都バグダッドに学問府を設け、ギリシャ語の書物の組織的な翻訳を行いました。そして、中東の学問の集大成をムスリムが受け継ぎ、法学や神学、その他の学問を発展させていきました。中でも、自然科学全般、特に薬学、製薬、化学、医学等が優れており、「科学のプリンス」と言われたペルシャ人のイブン・シーナ(アヴィケンナ)が初めて血液循環の学説をたてたと言われています。そしてコルドバ、グラナダ等イスラムの大学に、12世紀からヨーロッパの学者たちが大勢学びにきたのでした。*
また、今日使われている言葉、数字の中にもイスラムの大きな足跡があります。「アル」(アラビア語の定形詞。英語のtheと同じ)で始まる言葉はいくつ思い浮かべられるでしょうか?日本語で定着しているものでも、アルコール、アルゴリズムがありますし、英語だと代数、錬金術もそうです。(禁酒のイスラムがアルコールを発見しているのも皮肉なことですが。。。)他にも、アラビア数字も現代社会においても広く使われています。(ヨーロッパではアラビア数字導入により計算能力が飛躍的に向上したと言います。ローマ数字では確かに計算しにくいですね)
一方で、皮肉なことにあまりに適材適所を追求しすぎたため、アラブ人は大きなしっぺ返しを被りました。すなわち、大征服時代に捕虜としてトルコ族をイスラム世界に連れてきました。今日トルコといえばアナトリア半島にある国を連想しますが、モンゴル族同様、元々は中央アジアに住んでいた遊牧民族で、今でもトルキスタンを始め中央アジアや現中国のウイグル等に広く分布しています。
少々脱線しますが、ムスリムは儒教の擁護と思想を借用しながら、自らのアイデンティティを維持し続け、中華文明に埋没・同化しない唯一周辺の人々として「回民」と呼び、昔から中国人には異質なものとして映っていました。加えて漢民族と混血を作らなかったために、異質性が際立ち、畏怖の対象だったのでしょう。**そして、今日においても中国政府の弾圧対象となっています。
さて、アラブ人は元々トルコ族を奴隷兵士として活用する気でイスラム世界に連れてきました。しかし有能な兵士集団であったために、ライバルの黒人奴隷兵士を駆逐し、地方総督や軍司令官等にまで上り詰め、やがて現在のエジプト、シリアの一帯で独立国家を築き、そして最終的にはオスマン・トルコ帝国としてアラブ人を支配下におき、主従逆転することになります。
ヨーロッパの国王たちであれば、軍団をトルコ族でまとめず、複数の多民族で構成し、分断させたでしょう。尤も、モンゴル帝国とまともに戦い、西進を止めたのはこのトルコ族奴隷兵士(マムルーク)だけでしたから、最終的には不可避な結果であったかもしれません。(ヨーロッパ人はハンガリーでもモンゴルの西進を食い止めたと言いますが、チンギス・ハン逝去の報を受けモンゴル軍が引き返したわけで、加えてハンガリーの草原ではモンゴル軍の軍馬のエサ場には小さすぎたため、モンゴルの興味をそれほど引かなかったともいいます)
第三に、教育機会の提供(愚民政策はとらない)です。コーランが字義通りでは「読むもの」というだけあって、コーランをイスラム教徒として読み、礼拝で一部を暗唱することを求めていますから、前述しましたワフク制度によりモスク付属の学校(マクタブ、マドラサ)が地元の篤志家の寄付でたくさん建設・運用され、初等教育や高等教育を庶民も受けることができました。そのため、中世イスラム世界で識字率は世界有数であったと言われています。
対照的に、キリスト教会では初等教育を庶民に広く提供することはしていませんでしたし、識字率も非常に低く、ガリレオ等の学者を宗教裁判にかける等、科学の発展への著しい阻害要因でした。(識字率の低さを物語るエピソードは、中世ヨーロッパのシャルルマーニュ大帝が自分の名前を書きたくて文字を学んだということが、当時の珍しい事件として現代にまで伝わっていることでしょう。)
では、男女間の不平等をどう理解すべきでしょうか?実はムハンマドは、この問題にも取り組んでいました。彼自身幼い頃に父親を亡くし、孤児として母子ともに苦労し、最愛の妻ハディージャと死別するまで一夫一妻であったと言いますから、当時の社会からすれば革命的な平等を訴えたようです。
気鋭の宗教学者、レザー・アスラン博士はこう言います。「女性たちが相続や自分の財産の所有ができない悪弊を排除するために、結婚と相続に関するアラビア古来の慣習法を修正し、女性にある程度の社会的平等と独立を確保する機会を与えようと懸命に努力した。(中略)「ウンマ」内での女性たちは、初めて、亡夫の財産の相続と、結婚の際の結納金を彼女の財産として保持する権利を与えられた」(結納金を夫は使えないし、離婚したら結納金は
すべて彼女のものとなり、実家に帰れたということです)***
「一方、ムハンマドは「ウンマ」を存続させる必要から、とりわけクライシュ族の戦いのあと数百人の未亡人や孤児をコミュニティーで面倒を見て保護しなくてはならなかったため、クルアーン第4章3節にあるように、「おまえたちにとって法的に結婚可能な女を二人なり三人なりあるいは四人なり娶れ。だが、すべての妻を公平に扱うことができる場合に限る」と(制限付き)一夫多妻制をはっきり認めた。他方クルアーン4章129節に明記されてい
るように、「お前たちがいかに切望しても女たちを公平に扱うことはできない」と断言して、一夫一妻制が望ましい結婚形態であるとしている。」***
また、今日多くのイスラム女性に求められているブルカ等のベール、全身を覆うチャードルも、ムハンマドは強要したわけではなく、ムハンマドの家に多くの信徒がやってきて、家族も見られてしまうことから、好奇の眼から隔離したかっただけなのが真相のようで、男性の願望によって捻じ曲げられて運用され、今日に至っているようです。***
しかし、社会の許容度を越えた規則が、例え神の言葉であっても違反を多く招くのは、古今東西変わらないようです。
4.異教徒に対する考え方
以前にも少し触れましたが、前述のアスラン氏の言葉を引用しましょう。「ムハンマドはイスラーム教徒と他の啓典の民(アフル・アル・キターブ)とのあいだにはっきりした神学的見解の相違があることを理解していた。だが、彼はこうした相違は神の神聖な計画の一部であって、神はもし望むなら単一の「ウンマ」を創造することもできたであろうが、敢えて「どの民族にもその独自の使徒」を遣わされたのだと考えた。つまり、ユダヤ教徒には「導きと光明が記された」モーセ五書を、キリスト教徒には「律法を裏付けるため」イエスを遣わし、最後にアラブ人には「以前に与えられた啓示を裏付けるために」クルアーンを与えた。こうした啓典の民の間のイデオロギー的相違は、クルアーンで説明されているように、神はそれぞれの民に独自の「法と道と生き方」を与えることを望まれたことを示している。」
イスラム教がユダヤ教、キリスト教よりも後発であることを意識してか、この3宗教がいう神は同一神であるとして、三者が平和共存できるようにそもそも工夫されていますし、異教徒がイスラム世界で生活するなら、人頭税を払うことで生命・財産が保証されていました。但し、異教徒より攻撃や不利益を被る場合には、立ち上がってよいとしています。啓典の民ではない眼からすれば、非常に合理的な考え方です。但し、キリスト教徒にすれば、キリストが最後の預言者だと考えていますので、その後に生まれたムハンマドがキリストと同じ預言者であり、かつ最後であるという考え方に反発します。
なお、イスラム教のいう本来の「聖戦(ジハード)」は、ムハンマドが一度は追放されたメッカへカムバックする際の、いわばムスリム信徒の生存権をかけた戦いであり、相手が異教徒だから戦ったわけではないという認識があります。よって、今日見られる用途が正しいかは、イスラム教徒の間にも見解が分かれるところです。
*ブノアメシャン著 「砂漠の豹 イブン・サウド」
**板垣雄三・佐藤次高編著 「概説イスラーム史」
***レザー・アスラン著 「変わるイスラーム」