歴史の重み:すれ違いの米中関係 その2

番狂わせのニクソン・ショック
毛沢東政権で外交全般を指揮していたのは、周恩来首相です。とはいえ、毛沢東主席の意向に従わざるを得ず、後々まで中国に悪影響を与えた場面が2点ありました。一つは、フルシチョフ批判です。スターリン書記長に傾倒していた毛沢東主席は、スターリン死後、その後継者であるフルシチョフ書記長によるスターリン批判に拒否反応を示しました。これにより、中ソ間が緊張し、それまでのソ連からの技術支援が停止され、技師たちは帰国してしまいました。さらに、1960年代両国間の国境にある珍宝島で、戦死者を出すほどの戦闘が勃発し、ニクソン大統領の訪中前夜には、1969年の2倍以上45個師団ものソ連軍と国境沿いに対峙することになり、中国はソ連を脅威とみなすようになりました。

もう一つは、1960年代半ばから始まった文化大革命です。これにより、技術や知識への社会憎悪が生まれ、技術発展どころの話ではなくなってしまいます。それ以上に政治的に生き残ることが大事ですから、周恩来首相は注意深く時機を待ちました。そして、やがて毛沢東主席がかつて自らの後継者に指名した林彪との間で政治的な闘争を始める頃から、周恩来首相は文化大革命の後始末、中国経済再建という大事業にようやく着手できるようになり、改めて日本や西欧との接触を始め、最新技術を求めるようになったのでした。

そんな折、大統領候補時代のニクソン氏がフランスのド・ゴール大統領と面談し、中国との国交の可能性について相談しました。この話を、駐中フランス大使経由で聞き、周恩来首相は大変喜んだと言われています。

しかし、両国は慎重に事を運びます。フランスやパキスタンを経由国として互いのメッセージをやり取りしました。中でも秀逸(露骨)なのは、毛沢東主席がアメリカ人の友人、エドガー・スノー記者を中国に招待し、インタビューに応じる形で、アメリカ大統領をどのような資格であれ歓迎すると、コメントし、後にライフ誌に掲載されたのでした。(当時の専門家がこの発言を見過ごしたのは、素直に驚きです。)

このようにして互いの意思を確認後、1971年キッシンジャー大統領補佐官、翌年ニクソン大統領の電撃訪中という大事件が起こったのです。文化大革命が下火となり、世界の大物と渡り合える中国共産党随一の外交官、周恩来首相がまだ存命中(76年死去)という好条件が重なったタイミングでした。これらの時期が少しでもずれていたら、実現は難しかったでしょう。

さて、ここで両国の求めるもの、相手国の回答を確認してみましょう。
<アメリカ側の要望> <中国側の回答>
・北ベトナムへ義勇軍を派兵しないでほしい… 了承
・北ベトナムへの支援をやめてほしい… ソ連との関係もあるので無理
・北ベトナムに戦争終結を説得してほしい… 中国のいうことを聞かないので無理
・中ソ接近しないでほしい… 了承

<中国側の要望> <アメリカ側の回答>
・米ソ共謀で中国を攻撃しないでほしい… 軍縮以外想定なし、秘密取引なし
・台湾の大陸反攻に援助しないでほしい… 了承
・台湾を攻撃時に救援しないでほしい… 同盟国なので無理
・日本が大陸侵略しないように制御してほしい… 了承(日米同盟で縛っている)
・先端技術(軍事、非軍事)が欲しい… ソ連対策として受け入れる余地あり

少々解説しましょう。アメリカはベトナム戦争の泥沼から早急に抜け出したいわけですから、この件に関する中国の支援を第一に求め、その代償に台湾問題についてどこまで妥協できるかを模索しました。加えて、ニクソン大統領は、中国に接近できることをソ連に見せつけることで、ベトナム戦争に苦しむレイムダック状態をできるだけ取り繕った上で、ソ連に対しデタントを呼びかける肚積もりでした。そのために、中国にはソ連と距離を置き、アメリカがその間隙を縫って策を弄する余地を求めたわけです。

かたや中国は、前述の事情があるので、中ソ間で画策しないことには同意しますが、同時にアメリカがこの言質を使って米ソ間で中国を窮地に陥れるような策は弄さないよう釘を刺しました。これに対し、ソ連と軍縮交渉を進めるが、米ソ共同で中国を攻撃しようという意図はないと説明しても疑う中国に、ソ連と秘密の取引はしない、ソ連との交渉内容は通知すると、一方的に譲歩したのでした。(どの道、毛沢東主席はその後のデタントの動きに、ニクソン大統領やキッシンジャー補佐官を裏切り者だと激怒していましたが)

一方、台湾をいつか手中に収め中国統一を成し遂げたい中国共産党としては、台湾への日米の支援が最大の懸念事項ですから、最低限の、アメリカ政府が台湾独立を支持しないという言質を得ました。(但し、後にこの支持しないという言葉の意味が問題になります)

さらに、周恩来首相は、「アメリカは日本という「暴れ馬」を制御することができますか?」とキッシンジャー補佐官に尋ねました。これに対し、キッシンジャー補佐官は、あっさりと問題ないと答えます。(中国側に納得させる方が大変だったようですが)日本ではあまり知られていませんが、アメリカは、アジア諸国に対し日本が脅威にならないようにその軍事力を抑え込む装置として、日米同盟を説明します。(ちなみに、NATOの場合は、ドイツを抑え、ソ連(ロシア)をヨーロッパから締め出し、アメリカをヨーロッパ問題に巻き込む装置と言われます。)アメリカ軍の前では敗北した日本軍でも、中国大陸での対国民党軍、人民解放軍の戦闘では負けたことがないので、その力を当時の中国、ましてや日本軍と戦った本人たちが警戒していることは、当然すぎることであり、当時日本は高度経済成長期でしたから、その勢いに共産党政権がさらに警戒するのも分かります。

アメリカの下手な交渉
ここまで読み進んでから、再度両国双方の要望と回答を見直してみてください。中国とアメリカ、得るものが多かったのはどちらでしょうか?米中関係史の大著、「米中奔流」の著者、ジェームズ・マン氏は次のように語っています。「米中両国は本当に対立の危険を減らし、アジアの安定を増したのである。また、両国の協力はソ連に対する抑止力となった。この新しい関係がソ連に及ぼす影響がアメリカにとって重要なのであれば、中国にとってもそれだけ重要だった。中国は自分たちがソ連の脅威にさらされていると考えていたからだ。(中略)より切実にこの関係を必要としていたのは、アメリカではなく中国の方だったと思われる。」*

ジェームズ・マン氏はさらに、ニクソン大統領の対中交渉の下手さを、キッシンジャー補佐官のみとで中国政策を決めてしまったこと、ニクソン政権内の対立を中国にそのまま持ち込んだこと、の2点にあると分析しています。

最初の点は、情報漏洩のリスクはあるとはいえ、自分の国務長官にさえ一切相談しないことは異常です。よって、通常の外交プロトコルに反する形で一方的に訪中することになり、アメリカ大統領が中国へ朝貢しにいったように見られます。さらに、中国に行ってしまえば、中国側が任意に会議場やスケジュール等の設定をできるわけで、交渉上有利になります。ただでさえ、中国では、夷狄の使者を圧倒するような宮殿の中で、中華風にもてなしつつ心理的に萎縮させる手法が確立されているわけで、ほとんど中国の知識のない、貧しい東欧出身者がのこのこ出かけていけば、幻惑されてもおかしくはありません。こうして、中国のペースに乗せられた形で交渉をした結果、後遺症として中国はニクソン政権以降も「特別待遇」を求めるようになりました。

2点目は、アメリカの歴代政権でありがちなことですが、国務省とホワイトハウス内の国家安全保障委員会(通称NSC)との確執です。日本で例えていえば、安倍政権時代の外務省と官邸といったところでしょうか。大統領と国務長官との関係性が大きくものを言いますが、大統領が気を許すことのできないような人物を国務長官に据えると、セカンド・オピニオン的にNSCの補佐官に意見を求め、下手をすれば国務長官の意に沿わない内容について大統領が直接外交行為を指示してしまうことがあります。結果、国務省とNSCの役割分担があいまいとなり、混乱の元となります。

特に、ニクソン大統領自身が非常に猜疑心の強い人物だと言われており、ウィリアム・ロジャーズ国務長官に中国共産党への打診について一度相談したところ反対され、キッシンジャー補佐官と二人だけで話を進めてしまおうと決意しました。結果、秘密性保持のため、アメリカ連邦議員やその他アメリカの著名人や国務省職員と接触しても、二人の接触について話してはいけないと中国側に求め、その後の交渉においてもロジャーズ国務長官に関与させませんでした。このような行為は、アメリカ国内政治的にはありがちな話だとしても、交渉相手の目の前で露呈してはいけないことです。

交渉の基本のキを守れなかったアメリカ側に対し、中国は相手によって態度を変え、有利な交渉を進められることを素早く学習しました。例えば、現政権の中国政策が気に入らない場合、現政権の担当者を冷遇しつつ、反対政党の元政府高官や大物議員を中国で厚遇するという事例はいくつも見られます。(日本の首相に対しても、例えば親台派と見られた佐藤政権とは本気で会話せず、非親台派の田中首相登場まで待つ、という具合です)

さらにアメリカにとり不幸であったのは、中国政策決定の寡占状態が、後継のフォード、カーター政権にまで引き継がれてしまったことでした。(NSC側のキッシンジャー、ブレジンスキーの両氏が主導権を握り続けました)ホワイトハウスのみならず、国務省を始め国防総省、軍関係者等が関与するようになり、人脈の裾野が通常の形に広がり、総合的な分析・決断ができるようになるのは、レーガン政権になってからです。

相手を知らずして中国に向かったアメリカ
ジェームズ・マン氏の言葉に加え、アメリカは、日本の友人たちと事前に中国について話していれば、もう少しアメリカ側に交渉上優位性が生まれたはずだと思われます。はっきりと意図を表現しないまでも、日本に向け中国がどのようなアプローチをかけているのか等きいておけば、1950年代から技術支援を日本に求めていたことや、文化大革命での中国の失態等事前に知り得たはずです。特に、対ケネディ氏との大統領選で敗北した失意のニクソン元副大統領を、岸信介元首相が何かと世話したと言われているのですから。

ちなみに、同じく周恩来首相主導で行われた日中国交正常化交渉では、田中角栄首相を交渉のテーブルに着かせるために、中国は真っ先に賠償金を放棄すると提案しています。賠償金放棄は、大きな決断のように思えます。その背景には、蒋介石政権が既に同じ決断をしていたこともありますが、他にも当時まだ抗日戦線(中国共産党は、対日戦後の国民党軍との戦いに備え、体力を温存し、あまり日本軍と表立って戦わず、まだ真面目に戦い、弱体化した?国民党軍を戦後の国共内乱で下した)を指揮した毛沢東主席等が現役であったため、国民党軍を弱くしてくれてありがとう、おかげで政権が取れました、という感覚があったことも否めません。(今日、こうした認識は、中国人民の執政党としていかがなものか?ということで、全く触れられません。直接毛沢東主席に言われた日本の議員たちが記憶しているばかりです。)

そうはいっても、アメリカほど最先端ではない日本の技術供与のためにさえ、国内の政治的リスクを負ってまで中国はここまで妥協する用意があったことは認識しておくべきでしょう。(その見返りに、中国は潤沢な経済援助(ODA)と表面上の台湾政府との断交を得ましたが。)

そしてそれ以上に、日本人に聞くべきだったのは、中国の大国としての歴史です。アメリカが初めて接した頃の中国は、起きなかった「眠れる獅子」だったかもしれませんが、その潜在能力についてはもっと学んでおくべきでした。なぜなら、中国の軍事技術を大きく飛躍させた責任の一部は、アメリカにあるからです。

ニクソン大統領は、中国自体がソ連への抑止力の一部となってほしいと考え、ある程度中国の軍事力を強化するために、軍事技術供与を許容するつもりでした。しかし、ニクソン大統領とキッシンジャー補佐官の二人でしか画策した話ではなかったため、その後の影響分析まで十分に行っていなかったように思われます。当時、キッシンジャー補佐官はアメリカの軍事技術と中国の石油を取引しようと持ち掛けていました。

具体的な話が登場するのは、カーター政権時代です。例えば、ソ連に供与するつもりがなく、中国が切望したランドサット航空写真偵察システムの地上受信局を、アメリカが供与しました。これにより、中国の衛星偵察プログラムが飛躍し、衛星の解像能力は大きく向上しました。その後のレーガン政権では、技術者を含めた中国人学生のアメリカへの留学プログラムへの道が開けます。

確かに当初は、中国の戦闘機にアメリカの航空電子工学装置を搭載させようとしても無理なほど、レベルが低かったのは事実です。しかし、中国はアメリカ同様、人も資源も豊富にある国です。過去に大帝国を築き、周辺諸国を席巻した経験を持つ国です。そのような国に軍事技術を与え続ければ、どうなるでしょうか。対中政策に関わったのち軍事産業に転職した、ある国務省高官のセールストークが、中国に売っても中国がアメリカに銃口を向けることはない、というものでした。今日でも同じセリフが言えるかどうか、興味深いところです。

さらに、あまり知られていないことですが、1980年代ソ連のアフガニスタン侵攻に伴い、CIAは中国から「小火器や突撃銃、地雷、対戦車砲、高射砲、ロケット弾発射筒、107ミリ・ロケット弾」*等を調達し、現地の抵抗勢力やムシャヒディーンたちに与えました。ここで、中国は武器輸出用の生産ラインへの投資をし、そのうま味を知ったようで、アメリカが輸出してほしくない国々-イラン、サウジアラビア‐にまで、シルクワーム対艦船ミサイルやCSS-2中距離ミサイル等を、アメリカには内密で輸出するようになりました。この点を指摘されても、中国政府は躱してばかりなので、1987年にはレーガン政権が初めて一連の経済制裁を科すに至ったほどでした。

それでも冷戦時代はまだ、アメリカが中国への技術流入に関する制御を出来ました。しかし、冷戦終結後、旧ソ連が従来売る気のなかった高度な軍事技術まで安く売るようになりました。加えて、湾岸戦争でハイテク兵器の威力をテレビ放映で見るや、人民解放軍も欲しくなります。そこで、「中国の軍事関係者は大挙してロシアになだれ込み、掘り出し物はないかと物色した。初めのうち小規模な兵器や技術の売買が主流だったが、1992年5月、両国の軍事指導者はそれまでにない大きな商談を成立させた。高性能の全天候型機で、2400マイルの航続距離を持つロシア製スホーイ27型ジェット戦闘機を、中国が24機購入したのである。」*

*ジェームズ・マン著「米中奔流」

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