「吐く→撫でる」タイプに育つ
私には生後8カ月の子どもがいる。先日、嘔吐した。吐くのを受け止めながら言ったのは、「上手に吐けているよ。よしよし」だった。子どもにとっては人生で初めての嘔吐。「詰まらせずに吐いてくれ」という願いから自然と出た言葉だったけれど、「上手に吐く」から「よしよし」って褒めるのって、冷静に考えたら人生で赤子のうちだけじゃないか(いや、老後も上手に吐いたら褒められるかもな)。
結局、子どもはなんで吐いたのかはっきりと理由はわからなかった。最近は胃腸炎が流行っているからそれかもしれないが、私たちはまったくピンピンしているので、どうかなぁ。
さて、話は微妙にずれるんだけども、誰かが嘔吐するときって、どうしますか。私は相手の背中を撫でる。なんでかっていうと、自分が撫でてほしいから。幼いころから、吐くときは母が背中を撫でてくれた。だから、「吐く→撫でる」とインプットされている。
一方、私の夫は私が飲みすぎて吐いていても背中を撫でてはくれない。私はそれがつらい。吐いているときに、記憶の中の母の手が私の背中を撫でるから。だから、頼んだことがある。「次に吐くときは、お願いだから撫でで」って。
そうしたら彼は、「自分は『吐く→撫でる』という図式が蓄積されていない」と述べたのだ。聞くと、吐いたときに介抱してもらった記憶がないという。
そんなことあるか!?
漫画やドラマでも、嘔吐する酔っ払いの背中を撫でる描写を見かける。だから「吐く→撫でる」の図式は一般的だと思っていたのに。家族になった相手がまさかその図式がインプットされてないなんて。
なんでこんなことをつらつら書いているのかというと、子が吐いているときに私はその背中を撫でながら、「この子は『吐く→撫でる』タイプに育つなぁ」とぼんやりと思ったからだ。もしかすると、私みたいに記憶の中の手が、大人になった子の背中を撫でることもあるかもしれない。
できれば子にはよい影響を与えたいと、思うのだけど。自分の行動が、そのまま子の人生につながることをふと噛みしめる。それは季節柄、まるで新雪に足を踏み入れたような気持ちで。
ちょっとだけ、二の足を踏む。私の一挙一動が、社会で泳ぐときに、うまく呼吸する術になるといい。