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もう、逢うことはできなくても

実家に行って、本棚を見ていたら、本の間から、高校生のときに撮った父とのツーショット写真が出てきた。

じっとするのが嫌いな人だったから、きっと今もお墓にはいないはず。

父のことを書いた、天狼院書店の課題。

「ふざけんじゃねーよ!!そんなもんねーよ!!」

私の父は、怒鳴って、ドカドカと男湯の暖簾をくぐって中へ入って行った。

昭和の終わり。
父がお風呂屋さんに行ったときのことである。
そこの番台の後ろには、貼り紙があった。
番台のおじさんがその貼り紙をおもむろに指さして父に言った。

「ちょっと、よく見てよ。」
そう文句を言われた時の父のセリフだ。

貼り紙にはこう書かれていた。

「刺青のある方お断り」

確かに、父に刺青はなかった。
だが、その態度は、まさに「刺青のある方」そのものだった。

父と車で出かけて、駐車場を探していた時のことだ。
父は交差点の赤信号で車を停めた。
少し遅れて、パトカーが隣に並んで止まった。
すると、父はおもむろに窓を開け、パトカーの助手席に向かって話しかけた。

「ねえ、この辺に駐車場あんの?」

若いお巡りさんは、驚いて、聞き直した。
始めに「スミマセン」くらい言ってもらいたい、という私の期待を裏切り、同じフレーズが繰り返された。

「この辺に駐車場あんの?」

信号が気になったからか、父が「刺青のある方」に見えたからか、お巡りさんは慌てたように答えた。
「次の信号を左に曲がると、駐車場があります。」

信号はすでに青に変わっていたが、父は全く動じなかった。
「サンキュー」
と一言言って、父は悠々と車を発進させた。

断っておくが、父は、堅気だ。
では、なぜ「刺青のある方」に見えるのか?

それは、簡単だ。
父は、パンチパーマだったからだ。

娘の私は生まれたときから父を見慣れていたので、父がパンチパーマをかけていることを不思議に思ったことはなかった。

だが、空港でお巡りさんに「刺青のある方」だと思われ、いつもパスポートの提示を求められることに激怒している父を見ていたら、そのパンチパーマをやめれば解決できるのではないか、と思い、初めて父の髪型について質問してみたことがあった。

「どうして、パンチパーマをかけてるの?」

すると、意外な言葉が返ってきた。
「これは、パンチパーマじゃない」

「え?じゃあ、なに?」

「ただのパーマだ。」

まさかの、衝撃の一言だった。大仏の頭のようにクリクリになっているのに、
パンチパーマじゃないとは

「でも、パンチパーマみたいだよ。」
私も引き下がれず、聞き返した。

「剛毛なんだよ。だから、パーマをかけてるんだ。」

私は、「だから」の理由がわからなかった。

「剛毛だからって、パーマをかけなくてもいいんじゃないの?」
「剛毛が嫌いなんだ。」
「でも、パンチパーマに見えるし……」
「だから、これは、パンチじゃない!」

誰もがパンチパーマだと思っているのに、当の本人は「パンチじゃない」という。
でも、短い髪にパーマをかければ、必然的にパンチパーマに見えてしまうのに……。
そう思ったが、反論はしなかった。

容姿が怖そうでも、世の中に優しい人はたくさんいる。
だが、父は見た目と変わらず怖い人だった。

父は短気で、家族にもすぐに大きな声で怒鳴って、家庭の雰囲気を悪くした。
いや、家庭だけじゃない。
たとえば、デパートの駐車場が混んでいて渋滞しているだけで、入り口の係りの人に理不尽に怒鳴った。レストランでもすぐに怒鳴って文句を言った。そういうことがしばしばあった。

それが、子ども心に恥ずかしく、私は、そんな父が嫌いだった。
そして、どうして母はこんな父と結婚してしまったのだろう、と思ったものだった。

今でもはっきりと覚えている。
自分の体の中には、母の血しか流れていないと思っていた、小学生のときの私と父の会話だ。

「お父さん。お父さんにそっくりな子どもが生まれてたら、どうした?」
「うれしいだろ」
「うそ お父さんにそっくりなんだよ。本当にいいの?」
「いいに決まってるだろ」
「えええええ!!!! 本当にいいのお」

今思えば、とても失礼な娘だった。
隣で聞いていた母が、
「もういい加減にしなさい」
と苦笑して、この会話を終わらせた。

私は、その後、人を見た目で判断してはいけないということを学ぶようになり、父を知ろうと、少しずつ父に話しかけるようになった。父はそれがうれしかったようで、私とよく会話をするようになった。高校のときには、父の良さがわかるようになった。
父は、確かに短気で怒りっぽく、話し方には問題があるが、裏表のない人だった。
そして、本当の父は、寂しがり屋で、優しかった。

父は映画が好きで、一人じゃつまらないと、よく私を誘った。
家で私が部屋にいると、「居間でTVを見ろよ」と私を呼んだ。
私が一人暮らしをした時は、よく母に「京に電話をしてみろ」と、陰で心配してくれた。

たまに理不尽な言動はあったが、私は、父のことがとても好きになった。

仕事を辞め、語学留学をしていた時、父が脳腫瘍で手術をした。
手術は成功したので、一時帰国していた私は、また留学先に戻った。
だが、転移が早く、状態が急速に悪化した。
私は留学先から荷物をまとめて帰国した。
その翌日から、父は危篤状態になった。
「父は、私の帰りを待っていてくれたのだ。」
そう思って、感謝した。と同時に、もっと早く帰国しなかった自分を責めた。

父は、その後も頑張って一緒にいてくれた。
そして、その1か月後、底冷えする寒い日に、父は他界した。
こんなに早く別れが来ることを知らなかったとはいえ、留学したことを心から悔いた。

父の最期を看取ったとき、他の家族は間に合わなかった。
医師が心拍を確認して「ご臨終です」と言うために横にいたのも気づかず、
私は、父にすがりついておいおい泣いていた。

「ごめんね。ずっと一緒にいてあげられなくてごめんね……」
家族が来るまで、私は父を抱きしめながらずっと謝っていた。

葬儀を終えてから、私は後悔に苛まれて、仏壇の前で泣き続ける日々を過ごした。
しかし、四十九日を迎える前に、と思い立ち、遺骨をキャリーバックに入れて、父と行きたかったところへ、出かけることにした。
一緒に行ったカフェ、映画館、水族館、父が大好きな釣りをしていた真鶴、などなど。

火葬場で、骨を骨壺に入れたときは、大きな骨が多かったのに、いろいろと連れ回しすぎて、父の骨はすっかり細かく砕けてしまった。
でも、きっと父は「いてーよ。」と言いながら、笑って許してくれると思った。

父が亡くなって今年で14回忌。
私は一児の母となり、小学生の息子を育てている。
私も短気で、夫や息子にすぐ怒るのは、父親譲りだと自覚している。
そして、時々理不尽に怒鳴ってしまうときがあることも承知している。

……そう。あんなに嫌いだった父にそっくりだったのは、なんと自分だった。
そして、息子は大の釣り好きだ。
父の血が息子に濃く受け継がれているようで、今は、それが、とてもうれしい。

つながっている。
もう逢うことはできなくても、存在を感じることはできる。

これからも、まだ気づいていない自分や息子を発見するたびに、
その中に父の存在を感じることができるだろう。

そして、きっと。
それを、父も、悦んでくれるに違いない。


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