43時間バスに乗り続けなければならなかった話
ボリビアでの実話です。
天狼院書店の『READING LIFE 』に掲載されました。
バスに43時間、乗り続けたことがあるだろうか。
日本だとしたら、北海道の最北端宗谷岬から鹿児島県鹿児島市まで車で移動しても、37時間。
宗谷岬から出発して、青森で観光をして、福島で一泊して……なんて、宿泊しながらバスで43時間の移動をしたのならば、楽しいかもしれない。
だが、私は、43時間、レストランに入ることもできず、売店に寄ることもできず、バスに乗り続けなければならなかった。
これは、今から10年ほど前の話だ。
当時私は、ボランティアで日本語を教えるため、ブラジルに住んでいた。
夏季休暇を利用し、ブラジルのサンパウロ空港から飛行機で、ボリビアのサンタ・クルス市に向かい、そこに住んでいる友人宅を訪ねた。
その後、一人でスクレ市にバス移動し、旅を満喫するはずだった。
サンタ・クルス市からスクレ市までは、バスで10時間。
日本で言えば、東京から広島までの距離。東京から夜行バスに乗って、朝起きたら広島に到着している、そんな予定だった。
私は、サンタ・クルス市のバスターミナルで、トイレに入り、歯磨きをし、水のペットボトルを一本買った。「スクレに着いたら、朝食を食べればいい」そう思って、夜食は何も買わずに、バスに乗り込んだ。ブラジルのバスは、日本のバスと同じようにきれいだったが、ボリビアのバスは、使い古された、カビ臭いバスだった。
夜、降り出した雨が、本格的になっていた。私は、その雨の威力を知らずに、雨音を心地よく聞きながら眠りに入った。
ボリビアは、ウユニ塩湖で有名だが、スクレ市も、魅力あふれる観光スポットとして有名だ。スクレ市は、街全体がコロニアル調の白い壁に赤い屋根の建造物が多く、白い街とも呼ばれている。1991年に世界遺産に登録された美しい街だ。
私は、朝起きて、そんな美しい街並みを目にするのを楽しみにしていた。だが、私は、アクセルを何度も吹かす音で目が覚めた。カーテンを開けて、窓の外を見ると、山の崖っぷちにバスは停まっていた。一瞬何がなんだかわからなかった。
運転手が大声で何か叫んだ。男性の乗客たちが、外に降りていった。隣に座っていたおじいさんに、スペイン語で話し掛けた。
「何があったんですか?」
「昨晩のひどい雨で、ぬかるみにバスがはまってしまったんだ」
男性客たちは、バスの後ろを押していた。何度も、挑戦していたが、バスは一向に進まなかった。
また、運転手が大声で怒鳴った。隣のおじいさんが言った。
「バスを軽くするために、私たちも、降りないと」
私も、おじいさんの後について、バスを降りた。
外は、雨が小ぶりになっていた。だが、舗装されていない山道は、ドロドロもいいところだった。前輪と真ん中のタイヤは10センチ以上ぬかるみに埋もれていた。
降りた人たちは、落ちている石を探して、タイヤの周りに置いた。私も、急いで石を探した。何時間経っただろうか。そんな、みんなの協力の甲斐あって、バスは走り出した。みんなで喜び、バスに乗り込んだ。すると、また、ぬかるみにハマってしまった。また、みんなでバスを降りて、石を拾い、バスを押した。先程よりは、早めに、バスが走り出した。だが、今度はみんなバスには乗らなかった。ある程度、道がよくなるまで、みんな歩くことになったのだ。私たち乗客は、バスと一緒に速歩きで進んだ。ぬかるみにハマると、バスを押す。歩く。押す。歩く。押す。そんなことを何回か繰り返し、ようやくぬかるみの道を抜けて、バスに乗り込んだときには、私は、空腹で、疲れ切っていた。水を飲み、目をつむり、再度眠りについた。
この旅の最初の出発地である、ブラジル、サンパウロ空港を出発するとき、空港で、ネックピロー(首に巻く枕)売り場が私の目に入った。空気を入れるものではなく、低反発素材のものだった。とても付け心地がよかった。かさばったが、購入して正解だった。かび臭く、薄汚れたバスの中でも、心地よく眠ることができたからだ。その時は、まさか、43時間の長旅が待っているとは思ってもいなかったが……。
数時間眠って、目が覚めても、まだ雨は降り続き、そして、バスはガタガタ道を走り続けていた。サンタ・クルスの街を出てから、舗装されている道など全くなかった。私は、少し尿意を感じたが、バスにトイレなどなかった。少し経つと、開けた低木が所々にある広々とした場所に着いた。そこで、運転手が叫んだ。
「トイレ!」
ようやく、トイレ休憩か、と思った。だが、バスを降りても、トイレらしき建物は何も見えなかった。そこで、そばにいた人に聞いた。
「トイレはどこですか?」
すると、その人は、こう答えた。
「バーニョ リブレ」
「バーニョ」は日本語で「トイレ」。「リブレ」は「自由」。直訳すると、「自由なトイレ」。ちょっとおしゃれに意訳すると、「開け放たれたトイレ」といった感じだろうか。とにかく、「どこでも好きなところでしていいよ」ということだった。
たしかに、その広々とした土地の所々にある低木の近くに、しゃがみ込んでいる人がちょこちょこ見えた。女性はボリビアの民族衣装を着ていて、裾が広がったスカートを履いていたので、パッと見ただけでは、何をしているかわからなかった。私は、スカートがうらやましくてたまらなかった。ジーパンを履いていたことを後悔したが、犯罪が多い南米では、自分の身を守るためにいつもズボンを履かなければ心配だった。仕方ない。だが、恥ずかしくて、さすがにお尻を丸出しにして「自由なトイレ」を使用することはためらわれた。トイレを我慢するしかなかった。それからは、水を飲むのも極力控えることにした。
もう、あとは、寝るしかなかった。私は、ネックピローに感謝して、眠りについた。
目が覚めると、夜になっていた。雨は、まだ降り続いていた。運転手がまた叫んだ。
「トイレ!」
私は、悩んだ。この暗闇を逃したら、私は、もうトイレに行くことはできない。今しかない!
私は、勇気を出して、バスを降りた。そこは、どこかの工場の裏のような感じだった。電信柱もあり、電灯も付いていた。こんなときは、付いていなくていいのに……、と心の中で愚痴った。私は、電信柱の電灯がついている道を曲がって、暗い道ですることに決めた。すると、すでに5人の女性が一列になって、しゃがんでいた。私は、6人目として、その一番奥で儀式に参加した。早くお尻をしまいたい気持ちとは裏腹に、あまりの久しぶりすぎる液体の排出に、時間がかかって一人焦っていた。バスの運転手は、日本と違い、乗客を容赦なく置き去りにして出発してしまうことがあるからだ。5人が儀式を終え、立ち上がり、バスに戻ろうとしていた。すると、一人の女性の叫び声がした。
「キャ!」
私は、驚き、急いで立ち上がりながら、ジーパンを履いた。
どうも、5人は全員液体を排出していたわけではなかった。大きい方も排出していて、それを踏んでしまった人が、声を上げたのだった。
6人目の私は、暗闇に慣れてきた目をこらしながら、足元に気をつけて、バスに戻った。
私は、運転手に声をかけた。
「運転手さん、いつ頃スクレに着きますか?」
「明日の朝には着くよ」
私は、胸をなでおろした。
「ありがとう」
本当に、ありがたかった。ようやく、スクレに着く。長かった。道が悪く、バスが速度を出せなかったから仕方がないが、それでも、長過ぎるバスの旅だった。もう、丸一日何も食べていない。だが、この夜を越したら、ようやく世界遺産の街に着く。きっと美味しいものもたくさんあるだろう。私は、ちょっと興奮した。だが、ネックピローはその興奮をも飲み込み、私を眠りに誘った。この時、私は、このバスの旅にまだ続きがあることを知る由もなく、深い安らぎの眠りに就いたのだった。
朝、さまざまな車のクラクションの音で目が覚めた。街中の喧騒なのかと思って、目を開けた。すると、予想だにしない光景が目に飛び込んできた。
私が乗っているバスは、ちょうど山から緩やかに下ってきているところだった。
そこから、見た景色。それは、眼下に、川幅10メートルほどの茶色い泥のような色の川が横たわっており、その川の手前に、汚れた色とりどりのバスが十数台連なって並んでいるという光景だった。私が乗っているバスは、その最後尾にゆっくりと停まった。
一体何が起こっているのか、全くわからなかった。隣のおじいさんも、この状況は、よくわからなかった。
当時は、スマホもなかった。あったところで、電波があったのかもわからないが、その時、自分がどこにいるのか、まったくわからなかった。
そして、何か食べたくて仕方なかった。起きたら、朝食が食べられると期待をしていたので、この裏切りは体に堪えた。大事にしている水を一口だけ飲んだ。トイレにも行けないので、水分もほとんど摂取していない状況だった。
サンタ・クルスのバスターミナルで夜食を買わなかったことを悔いた。だが、今更どうしようもない。お腹が空きすぎて、どうにかなりそうだった。何も食べずに、もう30時間以上経過していた。バスに乗っていただけだが、悪路のため、揺れもひどく、寝ながら、体力も奪われていた。「何か食べたい!」そう、心で叫んでいた。
そんな時、バスの外に出ている人たちが目に入った。あるおじさんが、クッキーを食べていた。そして、その隣にやって来た人に、クッキーをおすそ分けしていたのだ。
「私もほしい!私にもください!」
そう心で叫ぶ私の目は、おそらく殺気立っていたに違いない。私も、あそこにさりげなく、「ブエノスディアス(おはよう)」と言って、入っていけば、クッキーをもらえるのではないか。急いでバスを降りようとした瞬間、おじさんたちはお開きになって、どこかへ行ってしまった。
「おじさん! 待って! 私にもクッキーをください!」
そう言って、追いかけようか。追いかけてしまおうか! だけど……。
悩みながら、小さくなるおじさんの後ろ姿をずっと見ていた。勇気がなかっただけなのか、自尊心だったのか、結局、私は、追いかけることができなかった。
気がつくと、バスの中には、人はあまりいなかった。
バスは当分動きそうにない。多くの人が、川に向かって歩いていた。私は、荷物をすべて持って、バスから降りた。日本と違い、いつ盗まれるかわからないため、荷物を置いてはいけなかった。
川の近くには、大勢の人がいた。車の中の、汚れた足マットを川で洗っている人がいた。運転手だろうか。事情を聞きたくて、声を掛けた。
「すみません。どうして、バスは停まっているんですか?」
「川が渡れないからだよ」
「橋はどこですか?」
「あっちにあるけど、もう何年も工事中だ」
その人が指差した左の方を向くと、作りかけの橋が見えた。
「じゃあ、どうやって渡るんですか?」
「この川を渡るのさ」
その人は、当たり前のように言った。私は、よく理解できなかった。川の水深はずいぶんとあるように見えたからだ。
「渡るって?」
「昨日の雨で、水位が上がってしまったけれど、雨が降らなければ、この川は渡れるんだ」
「この川を渡るんですか!?」
「当分、無理だけどな」
当分、無理って……体から力が抜けた。力を振り絞り、最後の質問をした。
「スクレまで、どのくらいですか?」
「川を渡ればすぐさ。30分くらいだよ」
この川さえ渡れば、スクレに着く。それは、うれしかった。だが、この川をいつ渡ることができるのか。それは、いつまでもやってこないのではないか。そう思えるほど、泥色の川は、深い深い闇のように見えた。
私は、遠くに見えるバスの位置を確認した。私が乗っていたバスの後ろにも、数十台のバスが連なっていたのだ。それから、川の近くを散歩した。木陰のいたるところで、儀式が行われていた。この国では、これが当たり前なんだ、そう思った。ここは、ボリビア。周りはみんなボリビア人。自尊心なんてどうでもいい。私は、木陰でお尻を出して、儀式を行った。恥ずかしさも、後ろめたさも、何もなかった。ただ、その国の儀式をしたまでだった。
私が、バスに戻ると、一列渋滞になっていたバスたちが、ゆっくりと動き出した。前方のバスが川沿いのスペースにそれぞれ駐車する形になった。それには、理由があった。列の中間に停まっていたバスが、川を渡ると言い出したからだった。その緑と赤のクリスマスカラーのバスは、みんなが見守る中、勢いをつけて川に飛び込んでいった。
「おおおお~!!」
歓声が上がった。だが、やはり、まだ川は深すぎた。バスは、川の途中で停まってしまった。そのバスの乗客たちは、バスから川の中に降りるしかなかった。川は、大人の腰くらいまでの深さだということがわかった。小さい子どもも親に抱かれて、川から上がった。バスの下の荷物置き場から、荷物も取り出された。そこから、いちごの箱がいくつも出てきた。乗客の中に、農家の人がいたのか、川辺で箱ごといちごのたたき売りを始めた。あっという間に、人が集まった。
「買いたい! 買いたい! 倍払うから、私にも買わせて!!」
私は、心の中で叫び続け、急いでバスを降りる準備をしていた。だが、バスを降りる前にいちごはあっという間に完売してしまった。またもや力尽きて、座席に腰を下ろした。
なんとかして食べ物を手に入れようとする、醜い自分を垣間見た気がした。空腹は恐ろしい。
よくドラマなどで描かれていた、戦後の混沌とした日本の焼け野原での出来事のようだった。
私は、もう、ネックピローを付けても、眠ることはできなかった。
私は1年半、日系社会ボランティアとしてブラジルに住んでいた。日系社会ボランティアとは、移住者や日系人の人々とともに生活、協働しながら、地域社会の発展のために活動するボランティアのことで、私は、日系人が創設した日本人学校で子どもたちに日本語を教えていた。
その間、ブラジル国内の移住地を訪問し、大小さまざまな移住資料館を見てきた。そこで、移住したばかりの頃の写真をたくさん見た。原野の大木を倒すところから開拓した、人々の苦労が写し出された写真。ぬかるみの道で馬車を押す人たちの写真。もちろん、教えていた学校関係者の方たちからも、移住の苦労話は聞いていた。
「大変だったんですね」
言葉では簡単に言えても、実際、どれだけ大変だったかは、全くわかってはいなかった。
だけど、ぬかるみの道でバスを押し、空腹に耐え、いつ水位が下がるのかもわからない川を渡るのを待っていたら、移住した人たちが、どれだけの苦労をして、原野を開拓し、田畑を作り、自分たちの移住地を作り上げたのか、写真からだけでは想像できなかった苦しさや辛さを少し体感できた気がした。もちろん、こんなものじゃない。だけど、ブラジルに移住し、苦労してきた人たちの気持ちを、バスでタイムスリップして、身をもって体験させてもらった、そんな気がした。
そんなことを考えているうちに、厚い雲の間からは、うっすらと夕日が差していた。
運転手が戻ってきた。
「水深がだいぶ下がった! そろそろ出発するぞ!」
川に一番近いバスがエンジンを吹かし始めた。まるで、オリンピックの棒高跳びの選手が跳べるかどうか、固唾を呑んで見守るような気持ちだった。
ジャッボーン!!!
大きな水しぶきを上げ、バスは大きく揺れた。だが、今度は止まらなかった。そのまま、泥水をかき分け、川を渡り切った。
「やったあ!!」
大きな拍手と歓声が起こった。私も、高揚した気分で拍手をしていた。その場にいるみんなが一つになって、進もうとしていた。色とりどりのバスは、次々に川を渡っていった。その度に、喜びの歓声が沸き起こった。川を渡り切った運転手は、喜びのクラクションを鳴らした。同時に、次のバスにエールを送っているようにも聞こえた。30台以上のバスが、乗っている乗客全員が、一体になっていた。みんな空腹でハイになっていただけじゃない。みんなで一緒に乗り越えたという感動が、そこには生まれていたのだ。
私が乗っているバスの番になった。もう、止まることはない。ワクワクした気持ちでいっぱいだった。バスは、エンジンを吹かし、川に突入した。スプラッシュマウンテンのように大きな水しぶきが上がった。
「おおおお~!!!!」
バスが左右に揺れて、私たち乗客は歓声を上げた。川の水がバスに入ってきたが、不安はなかった。バスは、だいぶ揺れたが、ぬかるみにはまることなく、川を渡り切った。拍手と歓声が上がった。みんなが笑顔になった。今まで乗ったどんなアトラクションよりも、達成感があり、満足度が高かった。
タイムスリップは、終わろうとしていた。
私は、ペットボトルに残っていた水を一気に飲み干した。
夕日でオレンジに輝いている白い壁の世界遺産の街が、私の到着を待っていた。
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