前の記事から4年も経って。

「児童養護施設の検索結果をよりグラデーション豊かにしたい」というテーマを抱え、更新を途絶えさせて4年が経つという今に辿り着きました。いやはやお恥ずかしい。(恥ずかしいついでに、つらつらと記した以下の文は、書きかけの断片ばかりなので、後から直すか、消したりします)

検索結果に、個人情報や、その人の物語が出てきた時、それらがどんな風に扱われ得るのか?その意味を考えると、大きな単語で括ってざっくりこんな感じである…としか語り様がなくなる。そして、児童養護施設の「ざっくりそんな感じ」だけが残る。しかも偏ったイメージで残る。それに抗おうと試みた私の記事も、この課題に答えを用意できないまま、筆は重くなり、積もる塵の下に消え、発掘作業からし始める状態に。

ネットには、それくらいのことしかできん。隔たりがあって、ネットを介した向こう側の人には見ることのできない営みが、それぞれの場所にある。

施設の在り方を変える…とか、新しいやり方で枠組みを変えて…とか、施設の中からどうにかやってやろう、と思っていられたのは、現場に通い続けられるだけの資源を持っていた間だけ。家族が増えて時間が減り、コロナで義実家の手が借りられなくなって更に苦しくなって…あっという間に立ち行かなくなった。

まさか自分からこの施設を辞めることになるとは。このショックをこうして扱うまで2年もかかってしまったとは。

故郷を離れて義実家の近くに移り住み、まずは子育てせねば…と家事に仕事に。

あとは、継続が叶っている人達への羨望だとか、上手くいかない困り事に発展した人の話から感じる不安とのお付き合い。

何かを発信しようにも、自分の一挙一動で誰がどれくらい傷つくかわからない…という恐怖。赤外線センサーだらけの空間でアクロバティックしようとしたって無理なのに。

それでも自分のいなくなった施設はなくなってないし、今もどの子がいて、どの職員が残っているかもわからないけど、生活の営みが続いている。私の助けがなくなったからこそ自力を発揮し始める子どももいたかもしれないと思ったり。

さて、今日は児童養護施設の検索結果に、どんな色を投下できたのか。ちょっぴり悲しげな雰囲気は拭えなかった気がするけれど、これもまた気にしすぎなのかもしれない。

自分の好きな施設に訪問して回りたいと思います! もしサポートがあれば移動費と施設へのお土産代に費やします!