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見つけてあげるよ、その2

 前回は、「不特定多数の子ども」について遠巻きに語るよりも、顔と名前が一致する「その子ども」を発見することの方が、力が働くよね、見つけてあげようぜ!という話をしました。力の働きが良い方にも悪い方にも動くので、力強く、速く動くことに対して消極的な自分もいますが、目の当たりにした「その子ども」の笑顔が見たくて動いてしまう人の性質というものは止められないよなあ、と思います。

 今回は、「その子ども」の発見は何も“子ども”に限ったことじゃないよね!という話です。

  誰にも発見されないことによって、または存在することを否定されることによって、あるにもかかわらず「ない」ことにするしかなくなった、かつての「その子ども」ご本人さん。自分はこの世界に存在している(していても良いんだ)という感覚が持てないまま“子ども"としての時間を使い切ってしまった。

  …とまあ、そんな体験になるわけですが、児童養護施設という場に限らず、そのような道で大人になった方は結構多いのではないかと思います。

  自分の中の「その子ども」の存在に気づいて、自分の力で発見し、応答し、その存在を満たすというパワフルな人生を生きられる方もいますが、一方で「その子ども」の存在に気づかないまま生きている方もいます。
  自らの欠けた存在を満たしたい「その子ども」が放つメッセージは本当に多種多様で、それに誰かが名前をつけられることで「病気」「異常」「問題」「弱さ」といった、誰かと共有できる形を得る場合があります。そのような形でどうにか存在しようとしている「その子ども」を発見し、敬意を持って応答する、というのが取るべき態度なんだろうな、と思います。

  一方で、私も同じく発見されなかった一部分を抱えている一人だなあと思います。自分の子どもや児童養護施設で出会った子どもの姿を通して、自分の中に残る「その子ども」と対話することが多いです。

  じわりと熱が戻って燻りそうになったり、ちょっぴり寂しくなったり、自分が自分の中に残る「その子ども」を発見してあげる体験というのが時々あります。やたら子どもと摩擦を起こしてしまうなー、と思ってたら、自分の中の「その子ども」を現実の子どもに憑依させて自己対話をしているだけだった、なーんてことがざらです。

応答願う

  職員の資質を掘り下げようとするとき、「応答性が高い」という特徴が語られることがあるのですが、この手の話を耳にする度、バンプオブチキンのflyby/voyagerという曲の歌詞を思い出します。

  「通信ヲ試ミルガ応答ハナシ」「応答願ウ」

  その人自身が気づかないレベルの、「その子ども」が発するメッセージを受け取り、応答するのが大切なお仕事になるので、誰かに存在を見つけてもらいたいメッセージ(曲中だとメロディでしょうか)が宇宙を漂っている。しかもつかず離れずの衛星軌道上を回っていつも存在している。という理解って大切だよね〜、と曲を聞くたびに思い出します。歌詞がカタカナ表記なのもそれっぽい。見つけてあげるよ、応答するよ!という能動的視覚に引っかかることを願うばかりです。

さて、ここで切ります。また明日も続けられたらいいなあ。

ゆきちかさん

自分の好きな施設に訪問して回りたいと思います! もしサポートがあれば移動費と施設へのお土産代に費やします!