児童養護施設で働き続けるために“辞める”を掘り下げる〜⑴施設を生き抜く強者たち
こんにちは、ゆきちかさんです。児童養護施設で働きながら、考えを綴っています。興味関心は今、児童養護施設職員の暮らしのありように向かって動いています。
独り身だった頃は可処分時間(何に使ってもいい自分の自由な時間)を状況に応じて施設の仕事に割いたり、自分を癒すことに使ったり、結構余裕があったのですが、結婚し、自分の子どもが生まれて家庭ができたら時間配分の難易度が上がってしまいました。
今度二人目も生まれることになったので、より難しさを感じる状態になりそうな見通しです。子どもが一人風邪引くだけでこんなに大変なのに、二人になったら何でも二倍じゃん!?と今からヒヤヒヤしているのです(楽しさも二倍じゃん、という私もいますが)。
休まなきゃいけない日が多くなるとしたら、穴を開けて施設に迷惑をかけまくるような状態になってしまったら、私って施設の仕事を続けられるの?自分、つぶれちゃうんじゃない?下手をすると、私は“児童養護施設の職員だった人”に、しかも不本意ながらになってしまうの?望まない自分になっちゃうの?…という不安が今のリアルです。
完全にキャパを失う前に、問題に取り組み始めたい、とそんな話をしていきたいと思います。
児童養護施設で働き続けることができる人は一握りだけ
とりあえず自分の施設を見ると、ベテラン勢はごく少数で、家庭を犠牲にして、または自身の家庭は持たずして施設に人生を捧げてきた人、かつ仕事を継続できるほどに自身や家族の健康が維持され、大きな出来事に見舞われなかった人、だけが生き残っています。ロールモデルとして存在している人はこのような人たちだ、とも言えます。
社会がこの形を推奨し、後押ししてきた、という背景もあると思います。全ての施設に当てはまるかといえばわかりませんが、少なくとも私のいる施設だとそうです。
健康であるという前提に加えて、単純に運が良いとか、逆境を跳ね除けることができる心身のタフさがあるとか、あるいはどこかぶっ飛んだ世界観を持つとか、並外れて強い個性が必要になる世界だと感じています。(ここで施設職員としての能力の高さを出さないのは、“施設職員としての能力が高い”の定義が変わってきていると思うからです)
そういう、いわば個性の強者たちによって構成される空間は、どうしても「強者の理論」的空気をまとってしまいやすいように思います。
不運に遭うとか、逆境に挫けるとか、良くも悪くも常識の範囲内を生きている、といった人はふるい落とされやすいグループができてしまう感じです。社会の縮図としての施設を感じてしまいます。弱さや不利を背負うと、とにかく生きづらくなる世界。ぐががびばー!
うーむ、こう書いていくと、「そりゃあ辞める人が多いのも必然かな」と思えてきます。
不適切な養育を受けてきた子どもたちがどうだとか、その家族がどうだとか、目に見えやすい難しさが頻繁に語られていますが、この性質が施設の中で議論されることは少ないように思います。
この10年近く、辞めていく職員を2・30人はお見送りしてきたのですが、それが多いのか、少ないのか、辞めていくことの意味が何なのか、このままでいいのか…考えることばかりです。
あー、みんな、元気にしてるかな…。
元施設職員だよー!という方のアカウントをいくつか見させてもらっているのですが、施設が過去形になった方が、ご自身の人生の中で施設経験をどのように位置付けられているのか、いろいろうかがってみたいなあー。
とりあえず、今後数日はこの働き方問題の掘り下げをやってみようかと思います。
ゆきちかさん