喜びを感じる感情の筋肉を鍛えよう

感情の感じ方に筋肉があったとして。

幸せを求める自分の存在に気づいたなら、喜びを感じきれるくらいに"喜び筋"の筋力を鍛える必要がある。

今日感じたのはこんなことでした。

一つの出来事は見方が一つではなく、見る人によって見方は異なりますが、同じ人が特定の見方を選び続けることはよくあります。

体の動きであれば、慣れた動作を支える筋肉というものは、必要な分が付いているから自然に動作できる。

逆に、慣れないことをすると途端に体を痛くするのは、普段使わない筋肉を使うからですね。

例え動作そのものが素晴らしいものだとしても、慣れないことをすると痛みや苦しみを感じてしまう。

良いとわかっているのにやらない、というのはこの慣れの壁があるのだと思います。勉強しかり、仕事しかり、暮らしもそうでしょう。

そして、感情の感じ方にも「慣れの壁」がある。

普段から喜びを感じられることがなく、怒りや悲しみなど不快な感情に慣れていると、不快な感情が「普通」と化し、慣れない快感情を感じると違和感や居心地の悪さを味わい、積極的に快感情を否定する思考を走らせてしまう。慣れ親しんだ不快感情に戻って安心感を取り戻す。

幼少期から不快感情に慣れていると、その状況を変えようと自分に迫ってくる人がとてつもない恐怖だったりもします。相手の厚意に居心地の悪さを感じると、その相手ごと自分の慣れ親しんだ感情の流れに戻ろうとしたり。

私もある程度この要素は持ち合わせていて、褒められて素直に喜ぶとか、得意げに振る舞うといった行動に未だに苦手を感じるのですが、周囲の人の助けと、自分の承認欲求に導かれ、快感情に慣れつつあります(慣れました!と書きたかったけどその割に不快感情が多めなのです)。


「慣れの壁」を乗り越えて、“喜びを喜びきる”ために。


例え始めに激しい喜び筋の筋肉痛(罪悪感とか居心地の悪さとか恥ずかしさとか)に襲われても、喜びは悪くありません。

喜ばせた相手も喜んだ自分も悪くありません。

慣れていないだけ。

繰り返せば痛みは減り、自分が感じる喜びを、きちんと喜べるようになっていきます。

これと同時に、安心できる不快感情の中に戻ることも大切です。

自分の「普通」をいきなり全て投げ捨てることは危険です(そのスリルを味わうのも一つの手ではありますが)。

度々不快に戻ることは悪いことではなく、途中経過です。

見極めは難しいのですが、自己否定せずに不快感情を感じ切る事が大切です。

自分が自然と感じる事自体に善悪はありません。何度でも挑戦を繰り返して良いです。

さて、あなたは今この時を何をして過ごすと良いのでしょうか?(ニッコリ)

・・・とまあ書き進めてきたけれど、専門用語を使わずに話をする技術の訓練でした。

何度も不快に立ち戻るしんどさは、繰り返すほどに飽き飽きと感じられて何に取り組むのも諦めたい気持ちになるけれど、繰り返したからこそ言葉になる事もある。

言葉にできた事で自分の物語を再編する。

やりがいは尽きないはず!

誰かの自分らしさ再編に届きますように。

ゆきちかさん

自分の好きな施設に訪問して回りたいと思います! もしサポートがあれば移動費と施設へのお土産代に費やします!