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児童養護施設で働き続けるために“辞める”を掘り下げる〜⑵一握りの人たちだけが働き続けられる場であるべきか否か

 こんにちは、ゆきちかさんです。児童養護施設で働きながら、考えを綴っています。
  今回は、前回に続いて、児童養護施設職員の暮らしや働き方について考えていきます。

健康であるという前提に加えて、単純に運が良いとか、逆境を跳ね除けることができる心身のタフさがあるとか、あるいはどこかぶっ飛んだ世界観を持つとか、並外れて強い個性が必要になる世界だと感じています。(ここで施設職員としての能力の高さを出さないのは、“施設職員としての能力が高い”の定義が変わってきていると思うからです)
 そういう、いわば個性の強者たちによって構成される空間は、どうしても「強者の理論」的空気をまとってしまいやすいように思います。
  不運に遭うとか、逆境に挫けるとか、良くも悪くも常識の範囲内を生きている、といった人はふるい落とされやすいグループができてしまう感じです。社会の縮図としての施設を感じてしまいます。弱さや不利を背負うと、とにかく生きづらくなる世界。ぐががびばー!

…と、前回はこんなこと書いてます。専門的な技能を持ち合わせた人の中でも、更に一握りの人たちだけが働き続けることができる場所なんだな、と感じている今日この頃ですが、果たしてそれで良いのかな?というのが今日の疑問です。

さてどうなのだろう。

 “強者の理論”っぽく言うと「自分の身(家族という身内を含む)を立てられないような人であれば、他者の人生を支える仕事はできないだろう」という話になります。
 一つの側面として、正しいように聞こえるし、実際その理論によって新しい人が施設に入る余地が作られ、定着する人材を根付かせるきっかけを提供している部分もあります。
 シンプルで綺麗な“支援者ー支援対象者”の関係性です。これを支援の美しい形として見ている人もいると思います。

 一方で、支援者として生きる可能性を残した人をも現場から遠ざけてしまってまう点や、支援を通して繋がる関係性の複雑さを見えにくくしてしまう点(支援者から支援対象者へと単純な一方通行で成り立っているわけではない、ということ)、強者でいる限りは見いだすことができない“弱さの意味”の存在など、手落ちになってしまう部分も見えてきます。

 弱いからこそできることへの気づきや、弱さを持ち合わせるからこそ繋がることができる関係性(依存対象を数多く持つことによる自立の可能性)、弱く生きるという生き方の可能性など、何らかの弱みを持ちながら生存の道を作っていく支援を考えるのであれば、強者に対する弱みを経験しながら生きる人こそ支援に有効だとも思います。

  職員と子どもが「暮らしの共同研究者」として並んで立てる施設、を作れたらいいな、と思います。お互いに、自分の弱みを持ち込んで、弱みのままにして進んでいこうじゃないかと話して、じゃあどうしようかと話し合いが続いていく暮らし。「強くならないといけない」以外の道づくり。

  夢は広がるし、一昔前に比べたら非常に動きやすい世の中だとは思うけれど、それを成せるは強者(だから頑張ろう、強くなって上のポジションに進んでからやろう)、という矛盾も起こしそうだし、なかなか悩ましいものですね…!

児童養護施設が過去形に、一つの通過地点になった“元職員”という未来を思う。

  このように、頑張り方を間違えて自滅、という未来が見え隠れする視界と戦っています。

  心理職、というものもまた一つ大きな世界ではあるし(そういえば公認心理師試験合格してました!受験票探しをすごく頑張りました!)、「私はこの間まで、10年ほど児童養護施設の心理をやってましてね」とか言ってる自分の姿も想像します。これと同様のものがほかの職員にも見えていて、「それもありだけど、施設の仕事の方を取るよ」と言ってもらえる施設があるとしたら、それはどのような施設なのか。一握りの人たちだけが生き残れる場所ではなくて、思いを持ってくれる人が、多彩な距離感で結びつきを活かせる場所…。

…うーん、これはコンセプトを書く作業に当たるのかしら。なにかこう、事業の成り立ちみたいなことなのかな?こういうのやりたいんだけどさ!という話って、誰とどのように話せばいいんだろう。

今日はこの、素朴な疑問で筆を置きます…

ゆきちかさん


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ゆきちかさん
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